(文 森富子)
Part 1

 父・茂に抱かれた赤ちゃんが森敦、右は母・静野。
 父は「朝から袴をつけてきちんと坐り、毛氈の前に坐って女子供にも書を教えたりしていた」(『星霜移り人は去る』)、母は「なにかというと日本赤十字社の話をし、なかでも日露戦争で従軍看護婦として、博愛丸に乗り込んでいたのを得意がっていた」(同書)という。敦の名は、『論語』の「汝、徳を敦うせざれば危し」からとられた。
母・静野と幼き日の森敦。
 「母が写真好きだったから、ぼくの子供のころの写真も、逐一アルバムに貼られて保存されていた。いま思いだす一枚の写真がある。目がくるりとした西洋人形のような愛くるしい顔。髪もきれいに七三に分け、白い襟を首まわりにたらして、……きちんと靴をはいている。」(『わが人生の旅・上』)
韓国の京城中学校時代に、中学生弁論大会で優勝した森敦(前列右)。
 そのころ「政治家になろう」と思い、そのため弁論を鍛練しようとして、「溺るるごとき形して姿のあらぬ偶像を抱く」なる演題で演説をブッたりした(『星霜移り人は去る』)。
作家横光利一氏(左)と森敦(昭和9年・22歳)。
 「ニコリと笑った横光さんから、東京日日新聞の学芸部内部の都合で、延び延びになっていた『酩酊船』がいよいよ発表されるようになったと聞かされた…。東京会館で前祝いの顔合わせがあるというので、ぼくは母がひそかに用意してくれた羽織袴に雪駄をはいて、横光さんを訪ねると、横光さんは、『なかなか似合うじゃないか…』」(『星霜移り人は去る』)、そのときの記念写真。
東大寺にて、昭和11年・22歳ころの森敦(右より二人目)。
 旧制第一高等学校をやめたあと、「上司海雲さんのご厄介になり、東大寺の塔頭勧進所にいた」(「青春紀行」)が、上司氏の結婚を機に奈良ホテルの向かいの瑜伽山の山荘に移り、そこを拠点にして鰹漁船に乗ったり樺太に行ったりした。
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