(文 森富子)
Part 14

 森敦の父・茂(1861〜1930)は、雲耶山人と号した書家。Part12〜13に引き続いて掲げる。書、落款、遺品などが、森誠氏(森敦の長兄・競の長男)の手で保存されている。撮影は、森誠氏。
 父を語った文章を以下に掲げる。
〈母は父のもとにとついで、いまは僅かにそんな名をとどめた教会を残すだけの長崎市の銀屋町で、ぼくを生んだのだが、そこで頼まれて長崎の祭オクンチの傘鉾の花をつくっていたという話などもしていた。だから、客気に逸って選挙に出たり、(略)殖産興業に手を出したりして借金し、二重抵当、三重抵当にして落魄した父を、共立女子職業学校で習い覚えた造花で母が助けていたのかもしれない。
 その父が韓国に渡り、頼山陽の天草洋の詩にちなんで雲耶山人と号し、書家として生計を立てるに至った。しかし、日露戦争の終結とともに破産したものを、日独戦争の好況でお釣りが来るほど回復した後も、父は郷土に帰ろうとせず、京城の瓦屋根の門のついた大きな銀杏樹のある黄金町を去り、南山に近い旭町に家を買って永住の構えをみせた。〉『全集第五巻「わが人生の旅 東西西北」』
雲耶山人の書。

雲耶山人の書。

雲耶山人の印3種。

 森敦は、昭和7年(1932)7月に徴兵検査を本籍地の天草で受けたが、不合格の「徴集延期證書」を受け取った。そのことを記した文章があるので以下に掲げる。
〈せっかく旧制の高等学校にはいりながら学業を放てきして退学してしまった。すなわちいまの成人式、当時の徴兵検査を免れようもなく迎えたのである。
 この世にあっていわゆる大学とはされていない大学をあえてみずから選んだからには、およそひとが経験しなければならぬほどのこと、なんでも経験したいと考えていたから、徴兵を忌避する気持ちなどまったくなかった。といって、徴兵制度を是認し賛美していたわけではむろんない。ぼくは長崎市の銀屋町で生まれたのだが、本籍地の熊本県の天草にとどけられていたので、徴兵検査は天草の本渡市でうけねばならなかった。むかしの旅は遠かった。東京からはるばる熊本まで行き三角から本渡に渡る有明海の島々は本当に美しかった。
 徴兵検査の当日も晴れた日で、検査場は中学校だったか小学校だったかの講堂のようなところで、裸の壮丁たちがひしめいていた。それらが次々に背丈を測ったり、体重を量ったり、聴診器で胸を調べられたりしていたが、ぼくは至るところでほめられた。背丈も体重も理想的なら胸にもなんの曇りもなく健康そのものだったのである。当然甲種合格だと思っていたら、なんとそれで落とされたのである。クジのがれというのかもしれない。
 ぼくは進んでとってくれと願い出た。すると、権威の象徴のような徴兵官はみなを整列させて講話をはじめたとき、みなが徴兵を忌避しようとしているのに、こんな感心なやつがいると僕を名ざしで、明治天皇の御製まで上げて「戦さの庭に立つも立たずも」なぞとたたえてくれ、ぼくはいや穴にでもはいりたい気持ちになった。〉『全集第八巻「わたしの二十歳」』
森敦に送付された「徴兵延期證書」の現物。

雲耶山人の書。
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