016 校正は観光バスに乗って  森敦全集の刊行に寄せて
   原稿に満足せずに書き直しの連続
出典:東京新聞(夕刊) 平成5年6月3日
 父森敦が長い放浪をうちきって上京したとき、五十二歳であった。それから十年後、「月山」でその名を知られることになったが、その十年間は、日曜も祭日も、風邪で熱があっても、朝早くから山手線の電車の中で原稿を書いていた。
 文章を書けば速い。それも電車に乗らぬ日はない。電車で二、三時間、毎日書き続けているのに、作品はなかなかまとまらなかった。書いては書き直しして、まとまりかけてもそれを捨てて初めから書き直しをしていたからである。
 書いては捨ての繰り返しが、私には賽の河原のように見え、なんとかいい方法はないものかと、それとなく訊いてみたが、いつも元気な声が返ってきた。
 「書けば、天下をアッと言わせる。あわてることはない」
 そのころは眼光鋭く、口を開けば厳しいことを言い、酒を飲めば強い口調で語り続けた。時に延々と説教したり叱ったりもしたが、「意味の変容」に関した話に終始した。その熱意たるやすさまじく、文学の教祖のような感じがあった。
 しかし、放浪をうちきって東京での生活を始めてしばらくは、口三味線ばかりで、大口を叩くのである。
 「書けば、天下をアッと言わせる」
 大口を叩くたびに、私は「ウソくさい」と笑っていた。むきになって大口を叩くたびに言った。「それなら作品を書いて証明すればいい」と。
 私が「ウソくさい」と言い続ければ、きっと書き出すかもしれない。そのときそう思って、断固として「ウソくさい」と言っては笑っていた。それはゲームのようなものだった。
 耳の底に残っている言葉がある。
 「ノー、ノーと否定していけば、結局はイエスと肯定することになるんだよ。その証明は……」
 肝心の証明の部分は忘れてしまったが、たとい記憶達いだとしても、否定し続ければ肯定になるという話だけは信じたいと思っている。なぜかと言えば、「ウソくさい」と言い続けたために、『鳥海山』にいたる作品群や、『月山』を書いたような気がしてならないのである。
 電車を書斎にして書き出すと、書くことで頭がいっぱいになり、「話せば考えが整理できる」と言って熱弁をふるった。後で話したことを思い出そうとするので、テープレコーダーに録音することを思いついた。
 テープレコーダーが功を奏したのか、やっと作品の下書きがまとまって、それを推敲しながら原稿用紙の升目に丁寧に楷書で書き上げた。ところが「満足できない」と言って捨てようとした。私はやんわりと言った。「それなら校正で直せばいい」と。このセリフが成功して、活字になるまでにこぎつけた。
 活字になってしまえば、発表する覚悟もできるだろう。しめしめと喜んだが、問題は校正であった。
 私は長年、編集の仕事をしていて、校正ならお手のものである。いつでも喜んで手伝うから、電車で書いた作品を早く活字にして欲しいと言い続けていた。
 いよいよ校正刷りが出た。その校正刷りをカバンに入れて、私を誘うのである。
 「富士山を見に行こう」
 富士山が好きで、日ごろから「眺めていると元気が出る」と言っていた。書くことにつまったり、頭が回らなくなったりすると、調布市の外れを流れる多摩川べりまであぜ道を歩いて、富士山を眺めに行った。
 いつもは手ぶらなのに、校正刷りの入ったカバンを肩にかけている。よく訊くと、観光バスに乗って校正をするのだという。
 観光バスには、私たち二人のほかに四、五人の客が乗っていた。酒を飲んで騒ぐ人もない。静かだ。きっと集中できていい校正ができるだろう。私はバスの揺れに身を任せて眠っていた。
 終点についても校正に熱中した。富士山が雲に隠れて見えなくとも気にしなかった。
 観光バスで校正を仕上げても、また「捨てる」と言うのである。永遠に満足しないのだ。
 しかし、説得すると思い直して発表した。このとき捨てなかったので、「天上の眺め」など、当時同人雑誌に発表した作品を『森敦全集』に収録できたのである。
 やがて発表誌が送られてくると、嬉しそうにこう言うのであった。
 「あの日の富士山は、きれいだったね」
(もり・とみこ=故・森敦氏の養女、作家)
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