一九一二年(明治四五年・大正元年)
一月二二日、長崎市銀屋町で誕生したが、戸籍上の生まれは、熊本県天草郡富岡町(現、苓北町)二七一五番地。敦(あつし)の名は、父が「徳を敦うせざれば危うし」ということから命名。父・茂(一八六一〜一九三〇)は雲耶山人と号した書家。母・静野(一八八二〜一九五七)は結婚前、日赤の従軍看護婦。異母兄(長男・競、次男・静)二人、弟(四男・碩)一人の四人兄弟の三男。
 
一九一七年(大正六年) 五歳
この頃、朝鮮の京城に渡り、大和町に住み、黄金町へと転居。塾に通って『論語』の素読を習う。一〇月、弟・碩が誕生。
 
一九一八年(大正七年) 六歳
四月、京城府公立鍾路尋常小学校入学。翌年頃、京城府旭町に転居。
 
一九二三年(大正一二年) 一一歳
この頃(小学校六年生頃)、病気休学。
 
一九二五年(大正一四年) 一三歳
三月、一年遅れて京城府公立鍾路尋常小学校卒業。四月、京城公立中学校入学。数学が好きで打ち込み、柔道に熱中し、弁論を得意として政治家を志すが、古今東西の思想書や文学全集を耽読し、校友会誌に詩や小説を発表。同級に井上裕や小笠原長寛らがいた。先輩の中島敦に旧制高校受験の相談の手紙を出す。三年生、四年生のとき組長をする。
 
一九三〇年(昭和五年) 一八歳
一月三日、父・茂(六九歳)死去。三月、京城公立中学校卒業。旧制第一高等学校の受験に失敗。九月、京城日報社での文芸講演会に行き、講演後の交歓会で講師の菊池寛、横光利一らと話す機会を得、父の死もあって文学に傾斜する。夏冬の休みに上京して予備校の模擬試験を受ける。
 
一九三一年(昭和六年) 一九歳
四月、旧制第一高等学校文科甲類に入学。同級に太田克己、北川悌二ら、一年上に杉浦明平らがいた。この頃から、横光利一に師事。この時期、ジェイムズ・ジョイス、プルースト、ボードレール、ランボー、アンドレ・ジッドなどに心酔。この頃、母と弟が京城を引き払い、三年後に移して本籍とした東京市世田谷区北沢四丁目三八五番地に住む。
 
一九三二年(昭和七年) 二〇歳
一月、「酉の日」を「校友会雑誌」に発表。二月、考へ方研究社主催の日土講習会第三四回出発式茶話会で、五分間演説をする。三月、旧制一高を退学。七月、本籍地の熊本県天草で徴兵検査を受けたが、徴集延期となる。
 
一九三四年(昭和九年) 二二歳
二月、本籍を東京市世田谷区北沢四丁目三八五番地に移す。三月、横光利一の推輓で「酩酊船」を「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に断続的に連載。この頃、北川冬彦、檀一雄、太宰治らを知る。一二月、同人誌「青い花」創刊号発行。太宰、檀らとともに同人となる。この年、長野県松本市に移住。
 
一九三五年(昭和一〇年) 二三歳
七月、奈良東大寺に移る。兵本善矩を介して知った、上司海雲の住む塔頭勧進所に寄寓。東大寺戒壇院で行われた、松原恭譲の「華厳経五教章」の講義を聴聞する。この頃、東大寺近くの天満町に住む奈良女高師附属高女に通う前田暘と将来を約束する。
 
一九三六年(昭和一一年) 二四歳
東大寺近くの瑜伽山の山荘に移る。この頃、叔母・細川武子から家購入のためにと貰った大金四千円を資金に、山荘を拠点にして捕鯨船などの漁船に乗ったり、樺太に渡って北方民族と生活したりする。
 
一九三七年(昭和一二年) 二五歳
この頃、北川冬彦を介して鎌原正巳を知る。北川、鎌原の勧めで、小説、評論を書く。
 
一九三八年(昭和一三年) 二六歳
四月、横光、川端康成らと『田舎教師』の舞台、埼玉県熊谷、行田、羽生を旅し、羽生明太郎のペンネームが生まれた。
 
一九三九年(昭和一四年) 二七歳
四月、羽生明太郎の筆名で「朝鮮人参奇譚〈前篇〉」を「シナリオ研究」に発表。この年、婚約者の前田暘とその母が滞していた山形県酒田市を訪ね、吹浦の海岸へ行く。この初めての庄内行で、吹浦のすばらしい夕焼け、月山、鳥海山を知る。
 
一九四〇年(昭和一五年) 二八歳
五月頃、富岡光学機械製造所雪ヶ谷本社に入社。東京市大森区(現、大田区)入新井に住む。九月、羽生明太郎の筆名で「朝鮮人参奇譚〈後篇〉」を「シナリオ研究」に発表。
 
一九四一年(昭和一六年) 二九歳
五月、横光利一夫妻の媒酌で、前田暘と結婚。暘の父は、金弥(一八八六〜一九三三)、母は、よし(一八九一〜一九六八)。七月頃、富岡光学社内の文学愛好者グループ(のち芸術部)の部長となる。同僚の中浜義明が日記に芸術部の活動を克明に書き残すとともに、「端書通信」「富岡光学芸術部挨拶」の森敦自筆原稿を保存していた。一二月八日、太平洋戦争勃発。
 
一九四二年(昭和一七年) 三〇歳
この年、芸術部主催の名文鑑賞会で、三月に「枕草子」、八月に「万葉集」、九月頃に「万葉集」続編、「古今集」を語る。一一月、結核のため入院、長期休暇をとる。
 
一九四三年(昭和一八年) 三一歳
一月、退院して自宅療養。三月、出社。第一機械仕上工場主任となり、工事係主任を兼任。
 
一九四四年(昭和一九年) 三二歳
六月、強制疎開のため、大森区雪ヶ谷町に妻と一緒に転居。秋、青梅線小作駅近くに疎開した霞工場の製造部長となり、本社の役職を兼任。
 
一九四五〜四六年(昭和二〇〜二一年) 三三〜三四歳
八月一五日、終戦。富岡光学機械製造所解散。五年三か月の在職。富岡光学の同僚と岡山県の寄島で塩田の仕事をした後、東京の業界紙の仕事に就き、GHQのコンファレンスに出て地方紙に記事を売ったりして暮らす。その後、新聞「文化時事」を出すが失敗。
 
一九四七年(昭和二二年) 三五歳
一二月三〇日、横光利一死去。横光は亡くなる直前まで、森敦に原稿を書く場を探してくれた。
 
一九四八年(昭和二三年) 三六歳
この年から、東京都新宿区戸山町一番地戸山住宅に、母、弟と住む。三月、菊池寛死去。四月、「潮とまとり」の連載第一回を「文学界」(横光利一追悼号)に発表、未完。六月、太宰治死去。この年、斯波四郎を知る。
 
一九四九〜五〇年(昭和二四〜二五年) 三七〜三八歳
当時、食糧事情が悪く、妻が往き来して里(山形県飽海郡北俣村〈現、酒田市〉吉ヶ沢)から米を運ぶという事情もあって、妻の里を訪ねることが多くなり、横光一家が疎開したゆかりの地、西目などへも行く。庄内を一人で転々とする生活が続く。湯野浜の新湯に滞在した後、加茂に間借りし、大山に移って間借りする。柳原の農家に住み込んだり、秋田県小砂川や象潟にも行ったりする。この年から翌年にかけて、妻が耳の病気で酒田市の病院に入院。
 
一九五一年(昭和二六年) 三九歳
この年、小島信夫を知る。八月頃、山形県東田川郡東村(現、鶴岡市)大字大網字七五三掛の注連寺に行き、翌年の初夏まで滞在。一時、帰京するが、再び庄内を一人で転々とする。
 
一九五三年(昭和二八年) 四一歳
一月頃、友人と「東京広告」をつくるが失敗。六月、母と弟の住む戸山住宅に近い東大久保のアパートに一人で住む。小島信夫、宗左近、斯波四郎、鎌原正巳、島尾正らが頻繁に出入りする。
 
一九五五年(昭和三〇年) 四三歳
三月頃、東京を去って庄内に移り、一人で狩川から吉ヶ沢、湯野浜温泉に滞在。四月、遊佐町大字吹浦字布倉に妻と一緒に住む。五月、斯波四郎、河北倫明らと同人誌「立像」創刊号発行。八月、森敦白筆ガリ版雑誌「実現」創刊号発行、「近代工場I」(『意味の変容』「死者の眼」先駆稿)を発表。九月、「実現」第二号発行、「近代工場U」(『意味の変容』「死者の眼」先駆稿)を発表。一一月、「アド・バルーン」を「立像」第二号に発表。同月、酒田市下内匠町に妻と一緒に転居、昭和三二年三月頃まで住む。この頃、小島信夫ら友人が頻繁に訪れた。
 
一九五六年(昭和三一年) 四四歳
五月〜昭和三八年一〇月、「吹雪からのたより(ノートA・B・C・D)」を執筆。一二月、「実現」第三号終刊号発行、「深夜の呼び声」(『意味の変容』「寓話の実現」先駆稿)を発表。「意味の変容」はライフワークとなり、以後も随時発表し続けた。
 
一九五七年(昭和三二年) 四五歳
五月一日より、電源開発株式会社北山川建設所の尾鷲連絡詰所に勤務。奈良県吉野郡下北山村下池原に滞在。五月二六日、母・静野(七五歳)死去。六月、「もくえん(杢右ヱ門)の木小屋」(『浄土』「杢右ヱ門の木小屋」先駆稿)を「立像」に発表。同月頃、三重県尾鷲市今町に妻と一緒に住む。
 
一九五九年(昭和三四年) 四七歳
四月、三好徹を知る。
 
一九六〇年(昭和三五年) 四八歳
九月三〇日、電源開発を退職。三年四か月の在職。一〇月、新潟県西蒲原郡弥彦村字弥彦大石原に妻と一緒に転居。一一月頃、電源開発勤務の頃に「新潮」から原稿依頼のあった小説「尾鷲にて」の執筆に没頭したが未完。
 
一九六二年(昭和三七年) 五〇歳
四月、庄内の大山町(現、鶴岡市)馬町の山本清美方に移る。妻は実家に寄留。
 
一九六四年(昭和三九年) 五二歳
一一月、「立像」の主宰者、桂英澄の勧めを受け、「近代工場」(『意味の変容』「死者の眼」先駆稿)を「立像」に発表。その後続けて「立像」に四作品を発表。
 
一九六五年(昭和四〇年) 五三歳
一月、東京都府中市清水が丘に妻と一緒に住む。二月、千代田出版印刷(のち近代印刷に社名変更)に入社。昭和五八年七月退社まで一八年五か月在職。
 
一九六六年(昭和四一年) 五四歳
一二月、東京都調布市下石原の杉荘に妻と一緒に転居。
 
一九六八年(昭和四三年) 五六歳
一月、檀一雄編集の季刊文芸誌「ポリタイア」創刊号発行。真鍋呉夫、世耕政隆ら(のち森敦も)が参加。檀の激励を受け、「ポリタイア」に「天上の眺め」など小説ほか六作品を発表。五月、義母・前田よし(七六歳)死去。
 
一九六九年(昭和四四年) 五七歳
三月、「新潮」から原稿依頼を受けて、「題未定」(「月山」先駆稿)を執筆、未完。
 
一九七〇年(昭和四五年) 五八歳
一二月、妻が入院。
 
一九七一年(昭和四六年) 五九歳
四月、東京都調布市下布田町(現、布田)のやよい荘に転居。昭和五一年まで住む。八月、「光陰」を同人誌「茫」に発表。
 
一九七三年(昭和四八年) 六一歳
七月、「月山」を「季刊芸術」に発表。
 
一九七四年(昭和四九年) 六二歳
一月、「天沼」を「文芸」に発表。同月、「月山」で第七〇回芥川賞受賞。二月一五日〜七月二六日、「文壇意外史」を「週刊朝日」に連載。三月、「初真桑」を「文学界」に、「鴎」を「文芸」に、「かての花」を「群像」に発表。同月、『月山』(河出書房新社)刊。四月、NHKテレピ「ビッグショー」の対談コーナーにレギュラー出演。以後一〇年ほど多くのテレビ、ラジオ出演が続く。五月、対談「森敦の問答縦横」を「サンデー毎日」に連載開始。昭和五一年まで一〇〇回連載。同月、文化放送の人生相談にレギュラー出演。昭和五三年まで出演。同月、『鳥海山』(河出書房新社)刊。七月、佐藤富子と養子縁組をする。九月、「弥助」を「文芸」に発表。一〇月〜昭和五〇年二月、「意味の変容」(『意味の変容』先駆稿)を「群像」に連載。一一月、『文壇意外史』〈のち『星霜移り人は去る−わが青春放浪−』に改題〉(朝日新聞社)刊。
 
一九七五年(昭和五〇年) 六三歳
四月、妻・暘(五七歳)死去。五月〜昭和五一年一二月、「私家版 聊齋志異」を「潮」に連載。九月、「文学界」で文芸対談を行う。昭和五六年まで随時、文芸雑誌で文芸対談をする。一一月、「組曲・月山」(森敦文章、新井満作曲・歌唱)を発表、昭和五一年にLP、昭和六三年にCDとなる。
 
一九七六年(昭和五一年) 六四歳
一月、檀一雄死去。
 
一九七七年(昭和五二年) 六五歳
一月、東京都新宿区市谷田町に転居、死去するまで住む。
 
一九七八年(昭和五三年) 六六歳
九月一六日〜一〇月七日、慢性肝障害のため東京厚生年金病院に入院。
 
一九七九年(昭和五四年) 六七歳
三月、『私家版 聊齋志異』(潮出版社)刊。一〇月、映画「月山」(村野鐵太郎監督、高山由紀子脚本)を岩波ホールで上映。同月、『月山・鳥海山』(文春文庫)刊。一一月、『星霜移り人は去る−わが青春放浪−』(角川文庫)刊。
 
一九八一年(昭和五六年) 六九歳
一月一四日〜二七日、軽度の脳血栓のため、東京厚生年金病院に入院。六月〜昭和五七年五月、「長篇対談 文学と人生」(森敦/小島信夫)を「文芸」に連載。八月、『月山』の舞台になった注連寺境内に文学碑建立。自筆碑文「すべての吹きの 寄するところ これ月山なり」。除幕式に合わせて第一回月山祭を開催。一〇月〜平成元年九月、「わが人生の旅」を「旅の手帖」に連載。一二月、『明治の古典2 金色夜叉(尾崎紅葉、森敦訳)』(学習研究社)刊。
 
一九八二年(昭和五七年) 七〇歳
七月、『わが青春 わが放浪』(福武書店)刊。八月、『わが風土記』(福武書店)刊。
 
一九八三年(昭和五八年) 七一歳
一月、限定版『酩酊船』(成瀬書房)刊。五月、NHK教育テレビ「森敦おくのほそ道行1」収録。翌月まで随時収録。六月、NHK教育テレビ教養セミナー「森敦おくのほそ道行」第一回放映。翌月まで四回にわたって放映。八月、第三回月山祭で、中上健次作の野外劇「かなかぬち」を上演。一一月〜平成元年八月、「天に送る手紙」を「本の窓」に連載。
 
一九八四年(昭和五九年) 七二歳
三月〜昭和六二年二月、「われ逝くもののごとく」を「群像」に連載。八月、限定版『もくえん(杢右ヱ門)の木小屋』(成瀬書房)刊。九月、『意味の変容』(筑摩書房)刊。
 
一九八五年(昭和六〇年) 七三歳
二月、NHK教育テレビ「森敦マンダラ紀行」収録。翌月にかけて随時四国八十八ヵ所を巡って収録。四月、NHK教育テレビETV8「森敦マンダラ紀行」が三回にわたって放映。九月、『月山抄』(河出書房新社)刊。
 
一九八六年(昭和六一年) 七四歳
五月、『わが青春 わが放浪』(福武文庫)刊。同月、『マンダラ紀行』(筑摩書房)刊。八月、注連寺境内に森敦文庫完成。竣工式典に合わせて、第六回月山祭を開催。
 
一九八七年(昭和六二年) 七五歳
五月、『われ逝くもののごとく』(講談社)刊。六月、『十二夜 月山注連寺にて』(実業之日本社)刊。一一月、『われ逝くもののごとく』により第四〇回野間文芸賞受賞。
 
一九八八年(昭和六三年) 七六歳
八月、『われもまた おくのほそ道』(日本放送出版協会)刊。同月、対談集『一即一切、一切即−「われ逝くもののごとく」をめぐって』(法藏館)刊。同月、第八回月山祭での講演「雲を追って」が、NHK教育テレビ「こころの時代」で放映され、最後の講演となる。翌日、鶴岡市にて「森敦先生野間文芸賞受賞を祝う庄内のつどい」を開く。一〇月、「浄土」を「群像」に発表。一一月〜平成元年九月、「楽しかりし日々」を「新潮45」に連載。
 
一九八九年(昭和六四年・平成元年) 七七歳
一月、「吹きの夜への想い」を「群像」に発表。三月、「門脇守之助の生涯」を「文学界」に発表。同月、「喜寿を祝う会」を開く。四月、斯波四郎死去。六月、『浄土』(講談社)刊。七月四日〜一二日、東京厚生年金病院に入院。同月二九日、午後五時四三分、腹部大動脈瘤破裂のため死去。八月〜一〇月、「君、笑フコト莫カレ」を「文学界」に連載、未完。八月、山形県朝日村名誉村民第一号として顕彰される。同月、第九回月山祭、森敦をしのぶ会となった。九月、東京会館にて「森敦さんを偲ぶ会」を開く。一二月、『マンダラ紀行』(ちくま文庫)刊。
 
一九九〇年(平成二年) 没後一年
一月、『わが人生の旅』上・下(弘済出版社)刊。四月、北川冬彦死去。六月、『天に送る手紙』(小学館)刊。七月、東京都新宿区の神楽坂の光照寺にて納骨式、一周忌。戒名は「雲月院敦與正覺文哲居士」。墓所に森敦最期のことばの自筆文字「われ浮雲の如く放浪すれど こころざし常に望洋にあり」を刻んだ碑を建立。八月、『酩酊船』(筑摩書房)刊。
 
一九九一年(平成三年) 没後二年
一月、『われ逝くもののごとく』(講談社文芸文庫)刊。三月、『意味の変容』(ちくま文庫)刊。
 
一九九三年(平成五年) 没後四年
一月、『森敦全集』全八巻・別巻一(筑摩書房)刊行開始。平成七年一二月完結。一〇月、大分県宇佐市赤尾光岡城址に横光利一「旅愁」文学碑(「旅愁」の一節の碑文は森敦が生前揮毫)建立。
 
一九九四年(平成六年) 没後五年
八月、「組曲・鳥海山」第一章(森敦文章、新井満作曲・歌唱)を山形県遊佐町合併四〇周年記念式典で発表、カセットテープとCDを作成。
 
一九九六年(平成八年) 没後七年
三月、『浄土』(講談社文芸文庫)刊。六月、『天に送る手紙』(小学館ライブラリー)刊。
 
一九九九年(平成一一年) 没後一〇年
八月、大分県宇佐市の教覚寺境内に、「われ浮雲の如く放浪すれどこころざし常に望洋にあり」を刻んだ碑を建立。九月、『われもまた おくのほそ道」(講談社文芸文庫)刊。一〇月、鳥海山を一望する遊佐町の大平公園内に鳥海山文学碑建立。自筆碑文「鳥海山は わが観想の 幻の山なりき」。建立除幕前夜祭「鳥海と森文学を語る集い」を開催。
 
二〇〇一年(平成一三年) 没後一二年
八月二五日、四年前から月山祭の名称を月山文学祭に改め、昼間の会場を旧朝日中学校講堂に移して行った。第二一回となる月山文学祭のゲストは、歌手さだまさしさんと新井満さん。夕方からは、一三回忌の法要を注連寺の本堂で行う。
 
二〇〇二年(平成一四年) 没後一三年
三月、古山高麗雄死去。
 
二〇〇五年(平成一七年) 没後一六年
一〇月、山形県朝日村が鶴岡市と合併したため、鶴岡市名誉市民の称号になる。
 
二〇〇六年(平成一八年) 没後一七年
二月、『対談・文学と人生』(小島信夫/森敦、講談社文芸文庫)刊。六月、宗左近死去。一〇月、小島信夫死去。
 
二〇〇八年(平成二〇年) 没後一九年
五月、『酩酊船 森敦初期作品集』(講談社文芸文庫)刊。
 
二〇一二年(平成二四年) 没後二三年
九月八日、山形県鶴岡市の注連寺にて、「森敦生誕一〇〇年祭」(森敦生誕一〇〇年と森富子著『森敦との時間』出版をお祝いする会)を行う。第一部 〇記念講演「森敦生誕一〇〇年祭に寄せて」森富子 〇座談会「森敦との思い出を語る」新井満、勝目梓ほか 第二部 〇森の花見(懇親会) 〇スライド映写「思い出の月山祭」
九月二六日、東京會舘一一階ゴールドルームにて、「森さんお祝いの会」(森敦生誕一〇〇年と森富子著『森敦との時間』出版をお祝いする会)を行う。発起人は、新井満氏、荒川洋治氏、井上明芳氏、勝目梓氏、加藤潤氏、黒田杏子氏、高野悦子氏、檀ふみ氏、富岡幸一郎氏、藤沢周氏、三好徹氏。
 
二〇一四年(平成二六年) 没後二五年
一〇月一一日、「森敦研究」を國學院大學一一〇五教室にて開催。関連イベントとして、講演会、研究成果報告、朗読の魅力〜森敦文学を味わう〜を開催。
講演会は、森富子「森敦 秘話」、黒井卓也「小説「月山」への思い」。
「朗読の魅力〜森敦文学を味わう〜」は、講師・朗読を国井雅比古が「月山」から「場面一〜一〇」を抜粋して行う。
 
二〇一五年(平成二七年) 没後二六年
四月二八日〜六月二一日、森敦直筆原稿寄贈記念 企画展「森敦展〜庄内を愛した作家〜」を鶴岡市立図書館二階 展示コーナーにて開催。関連イベントとして講演会を開催。
講演会は、鶴岡市立図書館講座室にて、五月一〇日、森富子「庄内を恋いこがれた森敦」、井上明芳「資料から見える作家森敦」。
 
二〇一六年(平成二八年) 没後二七年
一月、『わが青春 わが放浪』(小学館)刊。
 
二〇一七年(平成二九年) 没後二八年
七月、『月山・鳥海山』(文春文庫 新装版)刊。
九月一日〜一一月三日、森敦寄贈資料目録刊行記念 企画展「ふるさとを描いた文学〜絆・横光利一と森敦〜」を鶴岡市立図書館二階 展示コーナーにて開催。関連イベントとして、講演会と「森敦 文学散歩」を行う。
講演会は、鶴岡市立図書館講座室にて、九月一六日、森富子「森敦から聞いた横光利一のこと」、井上明芳「絆への文学的アプローチ〜横光利一と森敦〜」。
「森敦 文学散歩」は、九月一七日、鶴岡市内の森敦ゆかりの地を巡る。講師は、森富子、春山進、井上明芳。
一二月一七日、「森敦文学研究 〈わたし〉が語る」を國學院大學一一〇二教室、一一〇五教室にて開催。関連イベントとして、講演、研究成果中間報告、シンポジウム 基調発表を行う。
講演は、森富子「森敦『われ逝くもののごとく』執筆秘話」。
研究成果中間報告は、井上明芳「〈わたし〉の技法」。
シンポジウム 基調発表は、黒田大河「〈汎通する自己〉としての作品―『意味の変容』から『酩酊船』へ遡行する―」、中村三春「方法としての〈わたし〉―『われ逝くもののごとく』への道程―」。
森敦研究会の発表、全体討議。
 
二〇一九年(平成三一年) 没後三〇年
二月、『私家版 聊齋志異』(小学館)刊。『日本名城紀行1』(小学館)刊。
(森富子 編)
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