002 死の山は私の“竜宮”
栃木新聞 昭和49年3月15日(金)
静岡・釧路・福島・徳島の各紙にも掲載
 「月山」は広大無辺の宇宙を包蔵して、芸術的香気を放つ作品である。
 六十二歳のこの芥川賞作家は、「月山」一作によって文壇を驚倒させたが、長い歳月に独自の文学世界を確立した森さんを、並みの新人と見るのが見立て違いなのであったろう。
 この小説に書かれた月山は、むかしから湯殿山、羽黒山と並ぶ“出羽三山”の一つ、庄内地方の修験者の霊場であった。その山ふところに注連寺、大日坊と呼ばれる二つの別当寺がある。森さんが庄内地方を漂泊のすえころがり込んだのは注連寺で、記憶はもう定かではないが、戦後間もない二十五、六年ごろの秋だったという。
 
 −ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき肘折(ひじおり)の渓谷にわけ入るまで、月山がなぜ月の山と呼ばれるのかを知りませんでした。そのときは、折からの豪雪で、危く行き倒れになるところを助けられ、からくも目ざす渓谷に辿(たど)りついたのですが、彼方に白く輝くまどかな山があり、この世ならぬ月の出を目(ま)のあたりにしたようで、かえってこれがあの月山だとは気さえつかずにいたのです。-
 
 こう書き出したあと、森さんは一気に主題に迫る。
 
 -すなわち、月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然(ほんねん)の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそはわたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら、そのいかなるものも覗(うかが)わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみめいたものを感じさせるためかもしれません。−
 
 こうしてこの作品は、注連寺にころがり込んだ「私」が寺を去る翌年春までのほぼ一年の四季の移り変わりを観照しながら、吹雪と丈余の積雪に閉ざされたその別世界で、黙々と息をひそめて生きる寺のジサマ(寺男)、村の男や女たち、吹雪をついて訪れる乞食など、それぞれの“生きざま”を描いて、土俗的なまんだらの世界をくりひろげる。
 この地方は“入定ミイラ”のメッカであり、注連寺にもそれがまつられていることで有名である。わが国には二十数体のミイラがあるがその十三体がいわゆる入定ミイラで、うち十一体までが出羽三山の行者の入定ミイラといわれている。それらは即身仏として、この地方の各寺にまつられているのである。
 
 −いずれ去らぬのなら、そんな寺にもいってみたいという気がして来たのはむろんですが、前途に目算もなく、そんなところならいくらかは食いつなげるだろうとも思ったのです。-
 
 「まるで安楽死でもするかのごとく行っちゃったんですが、人の心の不思議で、寺のジサマや村の人たちからは非常に喜ばれました。月山が死の山であるとは、行くまで知らなかったんですよ」
 古寺に無数のカメ虫が飛んできて、何ともいえぬ臭いにおいを発散して消えるころ、山は長い雨に降りこめられ、やがてミゾレになり、雪に変わる。ふぶけばカラスさえ消えてしまう雪に下界から孤絶し、死の山を仰いで暮らす別世界−。
 「秘密をいえば、ぼくは学生時代から華厳経を読んでいたので、これはぼくにとって“竜宮城”のつもりなんです。女は乙姫さまのつもりですし、バサマたちはその他の“魚”です。ぼくにとってあの世に行ってみるということは、竜宮に行ってみることだし、ケンランたる竜宮というのも、実はこんなものかもしれない。実をいうとこの小説を書くときに、二つの方法を考えたんだ。一つはカフカ流の書き方。しかしそうだと華厳とコレスポンデンスしない。主人公がオルフェにならない。それで華厳の世界を見て再びこちら側に戻る書き方にしたんです。……でもフランツ・カフカ流に書いた方がもっと喜ばれたかもしれんね」
 この小説は、春になって、「私」の親友が迎えに来、いっしょに山を降りるところで終わっているが、カフカ流に書くというのはこの結末の処理を変えることであろう。
 ところでこの本には「月山」のほかもう一編「天沼」という作品が収められている。やはり月山の吹雪の世界を背景にした作品だが吹雪の中をカンジキを踏みながら山を登る「私」と「ジサマ」の対話とその情景を通して作者の死生観を語った純度の高い短編であり、森さん自身
 「ぼくは“天沼”の方が好きだ。“月山”は読者を意識してサービスしているところがある」といっている。
 受賞後も各文芸雑誌に発表した森さんの作品は、「月山」の姉妹編と見られるものが多かったが、今後は“雪”と別れて南へ向かうという。紀州・尾鷲の太陽と台風と海を背景にした作品が次の予定だ。森さんはここ尾鷲にも十年ほどいたことがあるという。
 「ぼくは十年働いたら十年あそぶというつもりでやってきたんだ。二度目に仕事をやめた時はもう一生あそんでいても食えるとカン違いしちまってそのつもりでいたが、インフレで価値が下がってしまって……え? いまの仕事ねえ、もう十年たってしまったが、当分やめるわけにいかないんだ。無理にやめると煙が出る」

▼もりあつし氏は明治四十五年一月二十八日、長崎県生まれ。京城中学から旧制一高へ入学したが在学一年で中退。横光利一に師事し、菊池寛の知遇を得、太宰治、坂口安吾、檀一雄らと親交をもち、昭和十年、毎日新聞に「酩酊船」を連載。のち文筆を離れ、ことし「月山」で芥川賞受賞、文壇にカムバックした。
↑ページトップ
森敦インタビュー・談話一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。