004 中山義秀のあのころ
ポリタイア第七号 昭和44年12月25日
横光利一と中山義秀
編集部 義秀さんと、はじめてお会いになったことなどから入っていただきましょうか。

森 横光さんのところです。そのころはもう横光さんのお宅は、いまの世田ケ谷の池ノ上駅の近くにあって、隣りはどこどこの知事さんといったような、閑静な屋敷町だった。横光さんはその屋敷町の家の、ベランダをつけた書斎で、あすはもう原稿の締め切りで弱っているというようなときでも、そんな気配はぜんぜんみせず、昼からは来客に会う。みなと夕方まで語して、夕方から銀座に出て、夜の十二時ごろ帰って筆をとるんです。それで、横光さんの書斎にはいつ行ってもだれかが来ていて、いろんなひとに出くわすんだが、或る日、すでに一家をなしたような顔をした、和服姿の大きな男が坐っているんです。横光さんはいつも紺の結城に角帯をしめていて、キチンと正坐するか──でなければ、「失礼」といってサッと足を伸ばして、横になる。それでいきおい、こちらはまさか横になるわけにはいかないから、正坐するようになるんですね。それなのに、その大きな男はあぐらをかいているときがあり、腕ぐみをした手でタバコをすいながら、「横光君」などと言っている。その癖、ひどく気をつかってるようなところがあって、ツマランことに相槌を打って、感じいったようなふうをしてるんですよ。おなじ和服姿といっても、この大きな男は茶無地かなにかで、安っぽいものではないが、大事にしていたむかしのものかなにかのようで、横光さんのような仕立ておろしのリュウとしたものではない。「横光君」というから、もとからの付きあいに違いないが、夕方になると必ずぼくらに行こうと言って、銀座に連れて行ってくれる横光さんが、その大きな男を誘うようでもない。いったい、だれだろうと思っていたが、横光さんに訊く気もしないでいると、岡村政司(当時はもう文芸春秋に「雨」という小説を発表していた)が教えてくれた。「あ、あれは中山義秀(当時は「義秀」といわずに「議秀」といっていた)というんだ。横光さんと早稲田で同級だったんじゃないかな」じつは、岡村政司に訊くときに、なんといって訊こうかと思っていたんです。和服姿の大きな男、横光さんを「横光君」といっている男、なにしろ横光さんの書斎には、いろんなのが来ているから、どう訊いたらわかるかと、内心、表現に苦心していたが、苦心もなにも、義秀さんたる存在が、いかにもぼくらの興味を引きそうな存在だったんだな。こちらがろくに表現もしないうちに、岡村政司は薄笑って、そう教えてくれたんです。もっとも、岡村政司は堀さん(堀辰雄)とそっくりな顔をしていて、堀さんがそうだというわけではないが、いつも薄笑ってるような顔をしている男でしたがね。

編集部 それは、いつごろですか。

森 いつごろだったかな。ぼくが二十歳か、ちょっと過ぎたというところで、義秀さんは省線(いまの国電)の田端だったかなんだったかの駅を上がったところにいましたよ。
金冠を売ってもてなす
編集部 年譜によると、昭和七年ですね。

森 じゃ、そのころですよ。義秀さんはその田端だったかなんだったかの駅を上がった、崖下の二階屋に借家住いをしてましたよ。そこを上がれば墓地で、五重ノ塔があるというところにね。やはりその二階を書斎にしていて、横光さんの机よりはるかに大きな机が置いてあり、平凡社の百科大辞典がキチンと書架に入れてある。もっとも、他にそう本があるようでもなかったが、すらりとしたせいの高い奥さんがいて、口数はすくないがなにくれとなく親切にしてくれる。奥さんがいるというだけで、もう遠い人のように思えるのに、なんでも三重県立一中や成田中学の教師をしたりした経験もあるという話でしょう。いまから思うと義秀さんも若かったんだが、ずいぶんとし寄りのような気がしてね。しかし、そんなとし寄りと、文学のことなら戦わせることができるという、いささか愉快な気持ちも、こちらにはあったんですよ。さぞなまいきにみえたでしょうが、義秀さんもさびしかったんでしょう。小なまいきな若者と話すのもまんざらではなかったらしく、行くととても喜んでくれてね。ちょうど、やって来た金買いの男に、なかなか抜けない歯の金冠を抜いたりして、ごちそうしてくれ、帰りは上野まで送ってってくれたりしたんだが、そのごちそうというのが湯豆腐で、大きなだし昆布が敷いてあり、中に鱈の切り身がはいってるんだ。まァ、食べてみろ、こんなにさっぱりしたものはないと言うんだが、ぼくは鱈というやつが食わず嫌いで、ニガテなんだ。皮が黒くて、身が白すぎる。なんだか、北国の深い海にいるいやに顔らしい顔をしている魚みたいで、口に入れる気になれない。もっとも、それはぼくの、バカげた空想で、ほんとはいやに顔らしい顔どころか、腹ばかり大きな魚だということがわかったが、それはずっとあとのことでね。とにかく、こわごわ、できるだけ鱈に遠いほうの豆腐を食べていると、義秀さんは酒をさしたりしてくれ、後ろ手に机の上の薄っぺらい同人雑誌をとって、「ウム、それは仏蘭西の頽唐派詩人の……にも似た、か。岡村はなかなか細かい文章を書くな」なんて言いながら、ちよっと斜に上を向いて、あの小さくもない口の、クッキリした薄黒い唇を小さくすぼめて、考えこんだような様子をするんですよ。月形半平太が見えを切るみたいにね。それにしても、仏蘭西の頽唐派の詩人ってことが口に出るのが、いかにも似つかわしくなくておかしかったが、そのうち、じいさんが天狗党の残党だとか、桜田門の浪士の生残りだとかいう話をしてくれ、おやじがまた無類の悪童で、村中かかって取り押えて、お灸をすえようとしたら、うんと力んですごくたくさん糞をしたんで、みながわァ汚ないといって手を離したら、いきなり逃げてしまったといった話をするんですよ。「それそれ、そんなのを書けばいいじゃないですか」と言うと、「書くことは書いたんだがね」 「どこに」 「いや、どこにというようなとこじゃないよ、カッ、カッ、カ」それがすこしも自嘲するふうもなく、とても愉快に笑うんですよ。

編集部 檀さんとはどうだったのですか。

森 檀さんが義秀さんと会ったのは、ずっとあとだと思いますが、檀さんんの名は、義秀さんは知っていましたよ。あれは「新人」でしたかね。たしか、そんな名の雑誌の広告が、突然「朝日新聞」の一面の下に、六ツ割かなんかで出たんです。なんだか凄い題のついた小説が並んでいる。こんな雑誌が新刊されたのかと思っていると、それが同人雑誌なんだ。同人雑誌であんな広告を、「朝日新聞」なんかに出したのは、空前絶後でしょう。それなりで出なくなったが、檀さんの「此家の性格」が出ていて、横光さんのまわりのものたちの口にのぼっていたんでしよう。横光さんは当然ぼくが檀さんを知っていると思ったのか──横光さんにはそんなふうに考えるところがありますからね──「檀という人を知ってるんですか」ときかれたぐらいです。「新人」にのせた檀さんの「此家の性格」はなかなか鋭いものだったが、それよりも文章がセンテンスごとに改行してある。当時は谷崎さんや横光さんの、なかなか改行しない文体が、圧倒的に青年たちを支配していたから、この志賀さん風の改行を、ぼくたちはかえって新しいものに感じたのです。それにまた横光さんは「高邁な青年」──じっさい、そんな言葉を使うひとでしたが──が好きでしたし、二十歳代で出られぬようなものはダメだ、といわんばかりなことを感じさせる人でしたからね。義秀さんは「いやァ、また高邁な青年が現われたらしいね」なんていっていたが、いささか横光さんが自分を見てくれないといったような気持ちもあったかもしれませんよ。それが戦後ふと書店にはいると、「小説新潮」だったかな、義秀さんが「台上の月」というのを書いている。「蟻台上に餓えて月高し」というのは横光さんの句で、よく色紙なんかに書いてやってたものだから、すぐ横光さんのことを書いてるなとわかったので、パラッと開いてみると、横光さんらしい人のことを「流行作家」と書いてある。流行作家には違いないが、義秀さんの口から横光さんのことを「流行作家」とはね。いささか今昔の感にひたったが、こんど義秀さんが死ぬと、どの新聞も「横光利一に師事し」と書いてあるでしょう。義秀さんが生きていたら、そういうふうに書かれることを、喜んだだろうかと、ふと思いましたよ。
横光利一との関係
編集部 中山さん自身が書いたものにも、師とはいかないまでも、先輩として横光さんにずうっとついてきたというようなところがあるわけなんですけれども、作品で見ると、いま森さんがおっしゃったような、離れたところにあるというような気がするのですが、そういう点は、そばで見ておられてどうだったのでしょうか。年は、たしか横光さんが二つぐらい上ですね。

森 そうそう。それで思いだした。横光さんはこんなことを言ってましたよ。「中山はぼくを同級生と思ってるらしいが、ぼくは中山より先に早稲田(大学)にはいったんだ。そいつをやめて、徴兵があるんでまたはいったら、中山がいるんだ。だから、ぼくのほうは先輩だと思ってるのに、むこうはぼくを同級生だと思ってる。そこに、食い違いがあるんだな」そんなときには、横光さんはちょっと黄色いような声をだして、とてもうれしそうな顔をするんだ。こんなことも聞きましたよ。横光さんがまだ早稲田にいたころ、ひとり喫茶店にいると、どかどかと学生たちがはいって来た。その中に、柔道着の上から着物を着た壮士風の義秀さんがいて、さかんに文学の話なんかしだしたというんですよ。そこで、横光さんはニヤリと笑って──と思うんだがね──「お前みたいなのと柔道をしたら、面白いだろうな」と言った。すると、義秀さんは「ようし、やろう」と言って、きかないんだそうです。しかたがないので、横光さんは──よく覚えていないが横光さんは、大化会かなにか柔道場のあるところにいたとかいうことで──そこに行って、柔道着にきかえて、いきなり背負い投げをかけたら、スパッとかかって、その義秀さんがゴンと敷居かなにかに額をぶつけたというんです。義秀さんがくやしがって「もう一丁やろう」と言うんだそうですが、横光さんはもう「きまった」と言って、さっさと着かえてしまった。横光さんは中学時代(三重県伊賀上野中学)、柔道や野球の選手をやっていて、走り高飛びをしても、自分のせいよりも高く飛べたというようなことは聞いていましたがね。横光さんはいかにもサッソウとはしていたが、瘠せた小さなひとだし、義秀さんは六尺以上もあろうという、偉丈夫ですからね。ほんとかと思う気持ちもあって、義秀さんに聞いてみると、「いやァ、俊敏なものだよ、横光君は」と、真面目な顔をして、いまやられたように、手をあげて額のあたりをこするんだ。ほんとだったんだな。義秀さんの話では、そのときいやに蒼ざめた顔をした、唇の赤い瘠せた小さな長髪の男がマントを着て、喫茶店の隅から、ジッと自分たちを見てたというんですよ。それが横光さんで、横光さんの眼は大きいというのではないが、澄んでいて光りますからね。そして、ふところから同人雑誌を出して、「こういうのを書かねばいかん」と言うんだそうですよ。「それが佐藤春夫の『田園の憂鬱』なんだ。どこでそんな同人雑誌を見つけたのか、だれもまだなんとも言わないころだからね。横光君は目がはやいというか、高いというか、われわれとは違っていたよ」と義秀さんの言うところをみると、義秀さんが下に柔道着を着て、やっていたという文学論も想像されるような気がしますね。もっとも、そういうところにハッキリふん切って、剣豪作家なんてもてはやされるようになったのかもしれない。(笑)横光さんからはぼくもよく、「ぼくがこれから文壇に打って出ようというのなら、第二の『田園の憂鬱』を書く」というようなことを聞きましたよ。義秀さんは早稲田を卒業して、三重県立一中に赴任するというとき、奥さん──むろん、ぼくがあの湯豆腐をごちそうになったとき親切にしてもらったあの奥さんで、横光さんはとてもキレイだったと言ってましたがね──と横光さんのところに挨拶に行ったそうです。横光さんは神楽坂あたりの、三畳ぐらいの天井が半分階段になってるようなところにいて、なんだか店からとって出してくれたそうです。それから、二人を送って途中まで来て、「おい中山。いい洋服をつくったな」と横光さんが言ったそうですが、そういわれてみると横光さんは、たしかにいままで着ていると思った羽織を着ていない。こっそり質屋に入れて来て、二人にごちそうしたんですね。とてもさびしそうにみえたと義秀さんは言っていましたが、三重県の中学で教鞭をとっているうちに、横光さんは文壇に打って出て、グングン名が上がって来る。義秀さんは気が気でなくて、とうとう教職をなげうって上京して、横光さんを訪ねてみると、横光さんは文芸春秋社のクラブにいるという。当時文芸春秋社のクラブは木挽町というんだかなんだか──そんないきなところにある二階家で、上では菊池さんだとか直木さんだとか吉川さんだとかが、マージャンをしたり原稿を書いたりしている。そこへ義秀さんが行ってみると、横光さんがリュウとした服装で階段から降りて来て、タッと途中でとまると、角帯を片手でグイとおろして、「おお、中山か」と言ったそうだ。いいところだな。(笑)義秀さんは思わずブルブルッとしたというんだが、文筆一本でやる決心をした義秀さんも、現実の冷さ──というより、みずからの非力を知るのがおちだったんでしょうね。早稲田時代政治学かなんかならっていた杉森孝次郎先生に小説を持って行って、「中央公論」に紹介してくれといったら、先生は「ぼくは小説はわからん。しかし、君のならいいだろう」と言って、紹介状を書いてもらったりしたが、のらなかったなんて笑ってましたからね。それからまた成田中学につとめたりしたんだから。そこで恩給もついて、こんどはジックリやろうとあの田端だったかなんだったかの二階屋に来ていたわけだが、あれでジックリでもなかったんだな。こんなことがあったんだ。ぼくが横光さんを知る前に菊池さんを知り、佐藤さんを知ってたようなことを口にすると、義秀さんはいやに深刻な顔をして、低い声で、「そんなことは横光君には言わないほうがいいよ」と、言うんだ。言わないほうがいいよもなにも、そんな話はとっくに横光さんにしていたんだし、すると、横光さんはとても愉快そうにいろんな話をしてくれるんで、なにを言うんだと思ったが、その癖、義秀さんはいろんなところに出はいりしていて、ぼくを引っぱって行くんですよ。お蔭で、ぼくは宇野さん(宇野浩二)や広津さん(広津和郎)まで知ったんですよ。宇野さんのところは面白かったな。二階の書斎に通されたんだが、雨戸を閉めきって、昼なのに電燈をつけている。牧水の「幾山川」の歌を掛けものにして、宇野さんはそれを背に椅子にかけ、テーブルに向かっているんだが、ひと皮ペラリとむけてしまったような白い顔をしていてね。低い声で「小説はやっぱり『私』(私小説)ですね」なんて長崎謙二郎の「文学界」かなんかに出た小説の話をしてるんです。すると、義秀さんは「ははァ、『私』ですか」なんてうけたまわっている。かと思うと宇野さんは「書くのは、こうして閉めきって書くのがいちばんですよ。なんといっても、外の音が聞こえませんからね。(といっても、宇野さんのところは上野のシンとしたところにあって、外にも音なんかなさそうなとこだったが)しかし、掌から汗が出て、原稿用紙に手のかたがついて困るんですよ。そんなときには、テンカ粉を掌につけるのが一番ですね」するとまた義秀さんは「ははァ、テンカ粉をですか。ここにね」とやっているんだ。弱っちゃってね。
議秀から義秀へ
編集部 世田ケ谷の方へ越したのはその頃……

森 そんなふうに義秀さんは次々と大家のところを訪ねているようだったが、ある日横光さんの帰りかなにかに、ぼくのところに来て、自分もこの世田ケ谷のほうに越して来たいが、家はないもんだろうかと言うんです。あれからぼくはほとんど田端のほうには行かなかったから、知らないでいたが奥さんが胸を病んでいて、だいぶ悪くなっていたんでしょう。墓地が見えるのを嫌がるんだといっていたが、日暮里かなんかにいたれいの岡村政司もぼくらの近くに来ていましたからね。けっきょくは、横光さんしかないというような決心をしたんだと思いましたよ。家はさいわいぼくの母親が見つけてくれた。家はすこし荒れているが、日あたりはよし、ちょっとした庭もある。こんどは、奥さんが二階を病室にして寝たっきりで、義秀さんが下にいる。長火鉢を挟んで話してると、上から「ばんちゃ、ばんちゃ」というような、か細い声がするんですよ。それでも、義秀さんは薄っぺらい同人雑誌を出して、古木鉄太郎の小説を読んできかせて、「最後にね。古木がひとり野原に出て叫ぶところがあるんだ。『葛西善蔵!葛西善蔵!』とね」 しかし、ぼくは気が気じゃない「奥さん、のどが乾いたんじゃないですか。番茶がほしいと言ってますよ」と言うと、「いいや、あれは婆さんを呼んでるんだ。ぼくらの国では、婆さんのことをばんちゃと言うんだよ」そして、義秀さんは「ケンランな文章を書くものは、陋巷に死なないというね。谷崎さんでも、横光君でもみなケンランだからな」感慨深げにそう言って、れいのように口をすぼめて、月形半平太のようにジッと傾上を見てるんです。思いだすな。古木さんが「葛西善蔵!葛西善蔵!」と叫ばずにいられなくなっているように、義秀さんも「横光利一!横光利一!」といわずにいられなくなってるような気持ちを。ぼくの母がそんな義秀さんを見るに見かねたんですね。あの百科大辞典なんかもなくなってしまって、なんだか家も荒涼として来たようなので、名教中学というところの教師に世話したんです。義秀さんはとてもよろこんで、さっそく勤めに出かけたが、そこの校長というのが柏木という人で、成田中学のときの教頭で、義秀さんはなんとしてもそんなやつの下にいるのはいやだと言って、即日やめてしまったんです。母にはたいへん悪いといって、義秀さんは三越の十円の商品券を持って来ましたが、母が「じゃいただきます。しかし、これはわたしからの、奥さんへのお見舞だと思って受けとって下さい」と言って返すと、義秀さんは「じゃ、喜んでいただきます」と言って帰って行った。そのときのことを義秀さんは同人雑誌に書きましたがね。石をけりけり帰り路に重大な決意──つまりやっばり、初一念の文学に帰りなんかいざというようなもので、悲壮といえば悲壮だが、いただけるようなものじゃなかった。が、それから間もなく、あの「教師の態度」が「文芸」(当時は改造社から出ていた)にのったんです。成田中学時代の話だから、ひよっとするとその柏木という人が思い出させたのかもしれない。なにしろ、義秀さんは成田中学時代も、同人雑誌を計画して、教練の教官をさそったりして、「ぼくは文学はどうも。しかし、あんたのすることだから、いいでしよう」と言われたなんて、笑っていましたからね。「教師の態度」はむろん、横光さんが押したんだ。うれしかったんだな、義秀さんは。本が出るとすぐ持って来てくれたが、いつものように和服じゃない買って来たばかりのような、ま新しいまっ黒なジャンバーを着ている。あの商品券がそんなものに変ったのかなというような気がして、ちょっとおかしかったが、そんな姿勢をしたこともないあの義秀さんがね。壁に背をもたせて、膝をかかえていつ果てるともなく話をして、帰ったんだ。横光さんも自分のことのように得意な顔をしているから、「ありゃ、『プーニンとパブリン』(ツルゲーネフ)だな」と言うと、「そんなことはないだろう。『プーニンとパブリン』は老人の話じゃないか」 「いや、老人の話じゃないが、二人の語ですよ」そこで、横光さんも「二人? 二人か」というようなことになった。とにかく、ぼくの母までほっとして、「小説が出るのが、あんなにうれしいものかね」なんてよろこんでいたが、義秀さんがほんとうに困ったのは、むしろそれからなんだ。奥さんは死ぬ。「教師の態度」も、まァただ「文芸」にのったというだけで、せっかくその名で出た「議秀」まで、「義秀」に変えてしまったんだからね。それから、義秀さんは転々とアパート住いなんかはじめる。だいぶ、生活が荒れて来て、たまたま横光さんのところに借りに行くと、檀一雄などという秀才が現われて、さッと横から借りていかれたりするんだから。

編集部 なんでも、檀さんは百円借りたとかいうことでしたね。義秀さんは二十円借りに行ったが、檀さんに先手を取られてしまったとか……

森 そのときは、ぼくも、そのお金で渋谷でビールを飲ましてもらって遊んだんだ。(笑)

編集部 その頃の百円というと、今の四、五万円というところでしょうかね。

森 思いだすな。横光さんは青年にそうされるのが好きだったんだ。それも、ふつうの人のように、奥さんを呼んで、金があるかないかというようなことを相談する人じゃない。いついってもお腹のところにでもいれてるのか、手を袖口からひっこめて、上を向いてなにかしてると思うと、サッと札を抜いて……
未発表の文壇番付表
編集部 そのころ森さんは、「毎日新聞」か何かにお書きになって意気軒昂で、義秀さんにお説教をされたとか。

森 説諭みたいなことは言わないさ。言われたことはあるけどね。「なじみができて、もててるそうだね。いやァ、かくさんでもいい。じつはその女はぼくも知っとるんだ」と、まるでぼくがみょうなところへ通ってるようなことを言って。檀さんからは朝の街で、「ブレク・ファースト」なんてものを、ごちそうになったりしたことはあるが、義秀さんからそんなことを言われるすじはないないのに、「いやいや、そうなくちゃいかんよ、カッ、カッ、カ」と受けつけようとしないんだ。しかし、あのころの義秀さんのものは、ずいぶん原稿を見せられたけど、「教師の態度」はまァまァとしても、とても将来ああなると思えるようなものじゃなかったよ。檀さんなんかまことに意気ケンコウたるもので、自分が文壇に出るなんてことは、当然だと思ってたんでしょう。自分のことはさしおいて、太宰やなにか、とにかくひとのことばかりほめて歩いていたんだが、それがある日、太宰と二人で「相撲番付みたいな文壇番付をつくった。義秀さんもまァ入れといたが、あれは張出だよ」と言うんですよ。「どうして、張出なんだ」と訊くと、「遣唐使の例をみても、阿部仲麿とか、吉備真備とか、みんなからだの大きい堂々たるやつばかり選んでいる。才能はないが、六尺ゆたかな大男だから、外国にやるときには、義秀さんに行ってもらうことにしたんだ」とこうなんだ。「そして、そんな番付をつくって、どうするんだ」と聞いたら、「これは印刷して、売るんだよ」って……。(笑)それで、そいつを見せてもらおうと思ったら、話だけでまだできていなかったらしいんだ。

編集部 五尺八寸以上というのは、そのときの語ですか。それをちょっと……

森 それはね、中学校の一年のリーダーに、せいの高さの言い方を教えるところがあってね。たとえば、シーザーが一番低くて四フィートいくら。ナポレオンはそれより高いが、五尺に足らないそんなふうにして、一番高いのがリンカーンで、七フィートに近いというようなことが書いてあったんですよ。そこで、それらの人物を、低い方から高いほうに並べてみると、英雄的な人物からだんだん人道主義的な性格になっている。面白いと思ってね。日本の文壇で名をなした人たちを、それ式に低いほうから並べてみると、白鳥や秋声、漱石、谷崎さん、横光さんと来て、宇野さん、佐藤さん、菊池さん、いちばん高いと思われる志賀さんや武者さんというふうになる。しかも、やっぱりだんだん人道主義的になってきてる。なんといっても、小さいやつは大胆でなければ踏みつぶされてしまうし、大きな人間は小心であるというだけで、美徳ということになるでしょうからね。それだけに、大きな人間が意外に気が小さく、柄になく神経質なところがあって、おやと思わせられるところがあるのは、ちょうど神経質なハムレットが彼の母から、「ハムレットや、汝はデブであるから」といわれているがごとしだが、それにしても日本の文壇の上限は、まァ五尺八寸というところで、それ以上というのはみあたらない。そこで五尺八寸以上は見こみがないという説を持ちだしたのだが、この説からしても、檀一雄や太宰治は危うくも合格だといっただけで、世上伝えられるように、これをもってなにも義秀さんをおびやかそうとしたんではないんですよ。
どん底の時代
編集部 森さんはどのくらい……(笑)

森 ぼくにもそれは、まあ好都合でないわけではなかっな。(笑)しかし、義秀さんには、あれが六尺ゆたかな人が言うのでなければ、とてもああした感じはでないというようなものがあったね。檀さんからさッと二百円借りてしまわれたときも、「いやァ、あざやかなもんだ。ありァ真剣白刃とりの名人だよ、カッ、カッ、カ」と笑っていたしね。ちょうど、丹羽さん(丹羽文雄)が目覚めるばかりに打って出る。すると義秀さんは、「あれよ、あれよと言うばかりだね。あれじゃ、少々矢ダマを放っても、スカスカと遥か足もとを抜けるばかりだよ」かと思うと、太宰が「鷭」や「青い花」で注目されはじめると、「いやァ、那須(辰造)のやつがほめるわ、ほめるわ」なんてからだを揺すって笑うんだ。それがあの六尺ゆたかな人が言うんだから、こちらもついおかしくなってね。なんだか、いまでも目に見えるようですよ。しかし、石川達三が第一回の芥川賞になる。それを機(しお)に、太宰やら高見順やら、どっと出て来るというようなことになりましたからね。さすがの義秀さんも「カッ、カッ、カ」と笑ってはいられなくなったんでしょう。そのうち、夜の夜中、義秀さんがだれそれのところに、金を借りに行ったなんてことを聞くようになったんです。思いだしたが、身に覚えもないぼくに、「いやァ、かくさんでもいい。じつはその女はぼくも知ってるんだ」なんて、みょうな冷やかし方をしたのもそのころのことで、あの六尺ゆたかなからだが荒れはじめたんですよ。高天原も揺れんばかりにね。(笑)ちょうど、義秀さんのいた静仙閣というアパートには、北川さん(北川冬彦)もいたんだが、そんなことで腹を立てるようなことがあったんでしょう。「義秀がバカに大きな植木鉢を持って来たが、大きいばかりですぐ枯れちゃったもんだから、なんだまるでお前みたいじゃないかと言ってやったよ」なんて言っていましたからね。ところが、外におっぱらかすと、枯れたと思ったその植木がまた息をふきかえして来たそうですがね。もっとも、それを北川さんに話すと、「そんなことがありましたかね」なんて笑うんだ。まるで、ぼくがつくった話みたいにね。横光さんも怒って、義秀さんに「中山! おまえの顔はまるで○○みたいに見えるぞ」と言ったと言っていましたよ。あの横光さんがですよ。深夜なんども借りに行くばかりか、腹にすえかねるようなことがあったんだな。しかも、○○だなんて、横光さんから想像すると、とても信じられないような言葉で、ぼくだけが知っているのかと思ったら、他にも知ってるものがあるんだ。おそらく、横光さんが自分でそう言ったということを、他のものにも言ったんですね。なんといっても、横光さんと義秀さんの関係は、他のものとは違うんだ。「教師の態度」以来、義秀さんがどうするか、ジッと見守ってもいたんでしょうし、こうもしてくれればいいのにという気持ちもあったでしょうからね。ぼくはあの田端のころの義秀さんを思いだして、はじめはとても信じられなかったぐらいですよ。子供さんも一緒のつつましいキチンとした暮らしぶりでしたからね。それでも、義秀さんは書くことは、書いていたんです。しかし、ろくなものはできなかったんだ。横光さんから「こりゃァ、題からして、小説の題なんてものじゃないよ」と言われて、義秀さんはその原稿をフトコロに入れて出たんだが、横光さんのところを出るとすぐ道がT字形になっている。そこに電柱があって、義秀さんがふと立ちどまるんだ。立小便でもするのかと思ってると、突然どっかと地べたに坐って、「おれはダメだ!」と大声で言うんだ。泣いてるんですよ。ぼくたちには青年の特権意識というのかな、青年だということに甘えたツキアガリというのかな、とにかくそんなエゴイズムがあって、ぼくたちはいいがという思いあがったものがあって、そんな義秀さんを軽蔑したい目で見てたんだ。しかし、実は他人ごとではないという自分の気持ちから逃れようとするための、それは自分自身への言いのがれだったのかもしれません。

編集部 面白そうな時代ですね。

森 面白かったけど、荒涼としてうすら寒かったよ。そのころぼくはもう東京を離れて、関西に行こうと決心していた。あのとき檀君にそれを言って「ぼくにもし書く気が起こり、なにか書くようだったら頼むよ」と言ったら、みょうに真面目なさびしそうな顔をして「ウソ」と言ったのを思いだしますよ。檀一雄は「直木賞」をもらったときの感想に、「太宰に兄事した」なんて書いてたが、ぼくらからみると兄事してるのは、太宰のようにみえましたよ。「鷭」も「青い花」もまァ檀一雄が出したようなものだが、「これで太宰が出ればいい」なんてハッキリ言っていましたし、それからもなんとかしようというわけで、太宰の原稿を持って歩いたりしていましたからね。それでぼくもあんなことを言ったんだろうが、檀一雄という男はそんなふうに他人のことばかりして歩いて、「おれは直木賞をとるんだ」と言って、志は大きかったが、いっこう書かない。書いても書きだしの何枚かで、「序説」ばっかりなんだ。(笑)とにかく、ぼくが東京を去ろうと思ったとき、そんなことを言ったのは、そんなことを言わせるようなところが、檀一雄にあったんですよ。ぼくの母なんかも大の檀びいきで、「檀さんは兵隊に行っても、きっと撲られたりしないだろう」と言ってたからな。(笑)

編集部 森さんはどうして関西に行こうと思われたんですか。

森 それはね、ぼくは朝鮮、満州、支那といったようなところに育って、木の名も花の名といっても、松とか桜とかポプラとか、そんなものしか知らない。小学校のときなんか「春」という作文を出されて、春だから花が咲かねばならんと思ったが、そんなふうだからとても困って、辞書から「草かんむり」の字を抜きだして、それが一時に咲きにおったというようなことを書いて、先生から「おまえの作文はまるで極楽のようだな」なんて笑われたぐらいですからね。それが東京に来てみたら、東京もまた植民地でしょう。いまほどではないが、やっぱり木もなければ花もない。古来、詩人は禽獣草木の名を知るとさえいうのに、これでは国土というものはわからぬし、どうも芸術を論ずる資格がないような気がしたんです。ひとには関東の風は下から吹く、しかし関西の風は上から吹くそうだからなんていったんですがね。
芥川賞受賞後
編集部 それで、関西は風が上から吹いていましたかね。

森 そりゃ、どこに行ったって、風は下から吹き上げていますよ。しかし、奈良に行ってみると、これがまた辞書から「草かんむり」の字を抜きだして、並べたというようなものなんだ。間違いのない立派な寺々がある。立派な仏像がある。たたなずく山々や村々のちらばった平野がある。それらにはみな間違いのない立派な名がついている。それらはたしかに間違いのない立派なものには違いないが、もはや名であって、物というべきものではないそれを芸術を志すものが集まって来て、礼賛している風情なんだ。それらは間違いもなく立派なものだから、礼賛していれば間違いないが、それで、まるで悟りが開け、極楽が開けるとでも思っていそうなぐあいなんだ。こいつはいかん、山は芸術によって、つねに名をつけられねばならんというので、そこには雪の山々があるが、ただ番号で呼んでいる名のない荒涼たる雪の山々のある、あの北緯五十度あたりに行って住もう、そこからすべてを構造しなおそうという、それからのぼくに支配的になった考えがきざしはじめて上京してみると、義秀さんの「厚物咲」が、芥川賞になるというさわぎなんだ。あれは「文学界」に出たもので、義秀さんはぼくがわざわざ雑誌まで買って読むようなやつじゃないと思ったのか、久しぶりの再会を喜んでくれたのか、ぼくにその「文学界」をくれ、河上さんが書けと言ってくれたんだ、というようなことを言うんですよ。

編集部 河上さんがですか。

森 そうなんだ、ぼくもなんだか、あの河上さんが義秀さんをという気がしたんだが、河上さんには広いところがあって、心で薄ら笑いをしながらも、義秀さんの認むべきところは認めていたんですね。それはそうと、ぼくはあの「こえ溜めの中のウジ虫がはい上がろうとしては落ち、落ちてはまたはい上がろうとする……」といった「厚物咲」の書き出しをみて、田端の家で義秀さんがれいの岡村政司の文章を見ながら、「それは仏蘭西の頽唐派詩人の……か」と言っていたのを思いだしましたよ。これもいわば「教師の態度」だが、「教師の態度」にはないある意味でのケンランをはらんでいますからね。横光さんに「やっばり『プーニンとパブリン』ですね」というと、横光さんは前にぼくの言ったことを覚えていて、「二人かね」と笑うんですよ。「それにこんどはいよいよ老人じゃないですか」と言いながら、ぼくはふと考えたんです。対横光さんという意味では、「厚物咲」は一種の「金と銀」(谷崎潤一郎)だとしても、横光さんの思考の方法も、まァたえず二者であるところのメカニズムですからね。ところで、受賞の祝賀会というのが盛大なものだった。横光さんをまん中にして、義秀さんと田畑修一郎が並んでいて、ニュー・トウキョウの大座敷が一杯になってるんだ。司会が「ぼくにもなにか言え」というんで、ただ「おめでとう」といつて坐ろうと思ったが、突然あの田端の家のころの奥さんやその奥さんが世田ケ谷の家で「ばんちゃ、ばんちゃ」といっていたのを思いだしてね。「この日をあの奥さんに一目見せたかった」といったら、一瞬満座がハッとしたようにシンとなった。その後、田畑さんとはとても親しくなって行き来するようになり、なんでも学生時代義秀さんと二人でだれとかの墓にもうでて、必ず名をなそうと誓い合ったというようなことを聞いたりしたんですがね。その受賞の会のときのことを話して、「きみがあんなことを言うんだろう。おどろいたよ。義秀もサッと顔色を変えたからね」なんていうんです。そうかもしれなかったなと思いながらも、こちらはまだ一人もので、向こう意気が強かったですからね。人を切ろうということさえ書こうという作家が、なにをそれぐらいのことをという気持ちがあって、義秀さんとはだんだん疎縁になるようなものを、ぼくは感じたのです。もっとも、義秀さんにも年少のぼくに、自分の○○を見られたような気持ちがあるかもしれない。すくなくとも、そう思う心がぼくにあって、ぼくをそうさせたのかもしれまぜんがね。それはまァそれとしても、ニュー・トウキョウのあとがまた凄いんです。義秀さんのよく行っていたらしい道玄坂の待合に、自動車でのりつけて、大さわぎなんだ。義秀さんはいかにもぼくのなじみらしいのを知ってるようなことを言ってたから、どんなのをぼくのなじみと思ってるんだろうと思ってると、女らしいものは出て来ずに、てんでにビールをあふっては、歌なんかうたってるとみているうちに、「おれもどうやらわかって来たよ」というものがあるかと思うと、「なにを、お前がまたわかるもんか」というようなことで、やっと浄土教的雰囲気の奈良から出て来れば他力の自カの違いはあるにしても、ここではまた禅問答なんだ。それで、撲りあいまではじまろうという騒ぎなんですよ。菊岡久利なんか、なんの関係もないのにいきなりビール瓶を机に叩きつけて、あとで「ああいうときには、ああしてやるのが一番いいんだ。そうでもしなきゃ、収まりがつかんからね」なんて笑っていたが、わかるわからんも只問答なら、菊岡久利のビール瓶もそうなんだ。こっちはそんな腹芸みたいな考えじゃ、いつまでたっても月世界には到達できんぞと思ってるほうでしたからね。(笑)むしろ、バカにしたい気持ちになって、さっさと逃っちまったことを覚えていますよ。ぼくはそのとき大岡さん(大岡昇平)のお父さんの家の庭に建っていた晴保荘というアパートにいたんです。その家というのは。丘の上から下のほうに差し出して、なん階たてかにした硝子ばりの家で、大きな松などの茂ったとても立派な家だったんですがね。そのときはなんでももうひと手に渡ったとかで、大岡さんもぼくがその晴保荘にはいるまで、ぼくの寝ていた部屋に寝ていたと管理のおばさんがいっていましたよ。大岡さんもまだ文壇には出ていなかったが、ずっと前から知っていましたからね。ふしぎなことがあるもんだと思ったんだが、なにしろ、横光さんのお宅と義秀さんのいた静仙閣の、ちょうど中間にあるでしょう。どちらのほうに来る人もよるもんだから、いつもぼくの部屋ははいりきれないぐらい人がいっぱいなんだ。「文芸」(改造社の)の桔梗君なんか毎晩のようにやって来て、それこそ義秀さんのことをほめるわ、ほめるわ「毎号でも義秀さんのものは買うんだ」なんてわめいてるんです。事実、義秀さんの「栄燿」「藁」はこの「文芸」に矢つぎばやに出たんです。桔梗君はそれから間もなく、若くて死んでしまったが、彼だってやがては自分も書きたい気持をもっていましたからね。石の上にもなん年というように坐っていれば、いつかは必ず出られるということを、義秀さんから身を持って示されたのに、勇気づけられたんでしょうね。ところが、ある晩、ドアが開いて、横光さんが立ってるんだ。おどろいたな。いや、横光さんがみえたことをおどろいたんじゃない。紺カスリの着物を着て、ビールかかえているんです。檀さんや太宰やぼくはいつも紺ガスリだったが、横光さんの紺姿なんか見たこともなかったからな。だれかが下北沢の駅の近くの喫茶店に好きな女がいて、義秀さんが通ってるというような話すると、横光さんは「よし、行ってみよう」とまるで青年みたいなんだ。そのとき横光さんは「死んだ奥さんに似た子だな」と言ったが、せいは高いがなんだかポッチャリしたような子で、ぼくが知っている奥さんとはおよそイメージが違うんだ。もっとも、横光さんのところに義秀さんがつれて挨拶に来たという奥さんはそんなふうだったのかもしれませんがね。それにしても、ぼくはだれかと一緒にその喫茶店にいるうちに、義秀さんが二度もはいって来たのを見たことがありますよ。そのたびに着物をかえて来てるんだ。それも、二度目は普だんぎに着かえて来たというようなんじゃなくて、二度ともどこに行くかというような立派な着物を着て、バカに真面目な顔をしてるんだ。おかしいというか、気の毒と言うか、オヤオヤという気持ちがしながら、ぼくはあの受賞の会で義秀さんが顔色を変えたというのを思いだしましたよ。それにしても、あんな横光さんを見たのは空前絶後だったな。ちようど横光さんの奥さんが山形のほうにいっていられたせいかもしれないが、二、三日して帰って来られると、横光さんもシャンとしていつもの横光さんになってしまったんだ。さすがの北川さんも「奥さんがいるとあんなにも違うんもんかな」とおどろいていたけど、こんなこと言うとまた北川さんから「そんなことをぼくが言いましたかね」なんて逆に笑われるかもしれない(笑)
努力の人中山義秀
編集部 横光さんのところに行っていた若い人たちは、そこに来ている義秀さんに対して何かこいというような感じを持っていたというように書いている人があるのですが、そういうものがあったのでしようか。

森 いや、そうだったら、むしろ反対ですよ。義秀さんの話をおもしろがって聞いていたぐらいだから。

編集部 人間的に敬愛しているけれども、なんとなくこわかったんじゃないかというようなふうに書いてあるのですよ。

森 そうかな。そりゃァ、あとからはだんだんそういう感じがでて来たかもしれませんね。もともと、学校の教師をしていれば、その学校もいい学校ですからね。なにごともなく美しい奥さんと、幸福にすごせたのに、それを敢えて捨てたというのからして、凄まじいものがないわけではなかったんですからね。ついに文壇に名をなしたといっても、その名をなさせた文学というものに、復讐したいような気持ちになったかもしれない。そういう意味では義秀さんもまさに運命を見た人ですからね。そんなものが現われて来て、義秀さんは不意に黙してそれを眺める。あのからだで急に黙されたりすると、少々の若いものたちは、それが自分のせいじゃないと思っても、なんだかこわくなって来るというようなことは、あったかもしれませんよ。

編集都 自分で書かれた昭和十年ごろの年譜に「乱行の癖あり、かたわら、ボードレール、聖書を読む……」とありますが……。

森 そうですか。じゃ「仏蘭西の頽唐派の詩人……」も笑いごとじゃなかったんだな。ひとに笑われるところを、かえって自分から笑わせ、ジッとしのんで努カしてたんですね。じっと石が坐っているうちに、だんだんと出てくるような苔を──苔は苔なりにいいとしても、苔によって、石を貴しとするようなことは、ぼくはあまり感心したくはないんだが。

編集部 幅のある人、人生の幅みたいなものを感じる人だったですね。

森 そりゃ、そうだろうな。よかれあしかれ義秀さんは、人生の中にいた人ですからね。しかし、ぼくは義秀さんが、山中鹿之介のことを書いたのを読んだが、あまり感心しなかった。横光さんがよく山中鹿之介のことを言ってたし、「日経」で拾い読みしたときは面白そうだったので、友人が持って来てくれたのを幸い読んでみたんですがね。義秀さんが鹿之介になったつもりでいるのかしれないが、なにかポーズのようなものが目について、それでいてポーズで押しとおすようなところも見えないんだ。しかし、ぼくのいうことだから、あてにはなりませんがね。

編集部 いまおっしゃいました義秀さんの肩を張ったようなポーズは、横光さんにもあったんじゃないですか。

森 横光さんにもじゃありませんよ。横光さんのところに行っていた青年たちは、煙草を吸うにも、灰を落とすにも、みんな横光さんとソックリなんですよ。ある男──これは義秀さんなんかとは似ても似つかぬ貧弱な、小さな男なんですがね。そんなのまでが、ちょっと考えこむように、傾上をみてるような様子をするんですよ。だれかのそんなするのを見たがなと思ったが、むろんそれは義秀さんの真似をしてたんじゃありまにせんよ。戦後ぼくも義秀さんとはなんどか顔はあわせましたがね。作品はいまいう山中鹿之介ぐらいで、ほとんど読んだこともなかったんですが、ぼくの母なんかよく義秀さんの話をして、よろこんでいました。なんでも、母が国電に乗ってたら、人混みの中で「森のお母さんだ。厄介になったなァ」と言って、いきなり抱きついて来た、大きな男があるというんです。見ると義秀さんなんで、「あ、義秀さん。えらくなりましたね。あなたの本は拝見してますよ」と言ったら「有難う」。「映画もちゃんと見てますよ」と言ったら「有難う」で、義秀さんはなんともいえず喜んだそうですが、酒くさいし、母ももうとしをとって小さくなっていたもんだから、義秀さんの大きなからだに抱きつかれて、思わず「助けてェ」と悲鳴を上げたかったと、笑ってましたよ。(笑)ところで、「山中鹿之助」を悪くいったから、いうのじゃないが、このあいだ、石鼎さんの「義仲寺」を読んでいたら、林さん(林富士馬)が絶筆になった義秀さんの「芭蕉庵桃青」に触れ、あれは一番いいものではないかといっているのを見ました。あれはだれもがそう書っているのかもしれないが、その文章には林さんの声が出ていて、ほんとうに林さんはそう思っているに違いない。横光さんも芭蕉のことをよく話す人で、お母さんが松尾姓で、よくノレンを譲ってくれなどといわれるんだと誇らしげにいっていたのです。そこでふとぼくは思いだしたのだが、あの義秀さんの「二人」も、芭蕉によって、じつは真にわがひとりの道であるところの「同行二人」の心境にまで、凄まじく澄んできていたのかもしれませんね。
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