008 私の近況
出典:新刊ニュースNo.285 昭和49年3月1日
「『月山』は「季刊藝術」にたのまれたんです。季刊だからゆっくりでいい、お気軽にというんです。それなら僕もやれんことはあるまいというわけで書いたわけです。だから割合スラスラ書けたですね。小説のほうからも僕を書かせていく状態になったんです。初めはあんなに長く書くのではなく、短くやろうと思ったんだけど、第一章の書き出しをかまえちゃいましたからね。短く書くんだったらああいう書き方はできないですね。あの頃は書きながらいろんなことがわいてきて、あのまま書いていたら何百枚にもなるんじゃなかったかな。だけど物をすてて書くものですから、こぼれ話があの中には沢山あるわけです。だから、あの中には事実である話もありますし、事実でないところもあります。事実でないというのは、いわゆる僕なら僕がこれだけの長さの話をしたと、そしてあなた方が都合のいいところだけをとるわけですね。そうするとまったく反対を意味するようなことがでてきますね。小説(『月山』)がそういう結果になっていますから、いずれそのこぼれた部分を小説じゃなく、随筆とか「『月山』こぼれ話」、そういうことでうめることをやらんと、ほんとの『月山』にならない。」
「小説というのは、いつも今日ただ今という、現在感がどのくらいみなぎっているかということが、読者を魅きつけるもとである。そのためには、なんか一つの前提を設定して、それからイチかバチか、一寸先は闇で、ずーっと書くことが演繹的になりますね。だから、演繹的になったほうが身につまされるわけですよ。ところが僕なんかの場合は、帰納的な事実が多いわけですよ。そうすると再編集といったって、ウソつかずに編集するつもりでいろんたところをカットせねばならない。だからもし(『月山』が)効果があがったとしたら、そのカットのほうであがってるんじゃないでしょうかね。カットしたところがなんかふくらみになるとか、幽玄的なものだといわれますけどね。」
「今度の受賞は迷惑だということはありません。あれ(芥川賞)は菊池寛さんがつくられたものでしょう。僕は子供の時にものすごく厄介になっていますから、うれしいというのが本音ですね。今がワーッと騒がれている真最中ですが、騒がれたからといってうれしいわけじゃないんです。やっぱり騒がれてやることが一つの道だと思うんですよ。今度なんかでも、あんまり騒がれすぎたから反動がくるんじゃないですか。そんなことは先刻承知でしてね。反動がきたら沈黙しますから。だって四〇年沈黙していた人間が、半年、一年沈黙したって、うちしおれたなどと思いませんから。その次にまた放っても、やっぱり文壇では見る人は見てくれるでしょうね。だからそれから先はこっちの実力ですよ。」(談)
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