012 よみがえった「モリトン」
出典:月刊エコノミスト第5巻第6号 昭和49年6月1日
ランボーもどきの出発
 《私は自覚症状が少ないせいか、ときどき自分の名前を森太郎とか浦島敦などと書いちゃうことがあるんですよ。自分を浦島太郎と思っているせいですかね。若く見えるでしょう。……え、私の年齢ですか? 弱りましたね、時間的な曖昧さが私の私たるところなんですよ。ちょっと待ってください……ええと、明治四十五年だったかな、たしか。これもよくは覚えとらんのですが、生まれたのは長崎市の銀屋町というところだと両親はいってましたかな。この町はいつごろからかなくなったそうじゃありませんか。それとも私が夢でも見ていたのですかな》
 横光利一をして「ツラを見ればわかる」といわしめた、そのツラにかかるオカッパ頭の髪をかきあげ、かきあげ、森敦がへんなことをいうのである。トボケているのかな、とも思えるのだが、トボケかたにも筋道というか、秩序というか、首尾一貫したものがそこにはあって、犯しがたい勁い力が漲ってくるのをどうしようもない。トボケに密閉されてしまうと、トボケがトボケに見えなくなる。これは道理である。自負を捨てきれば、あとがまにユーモアが腰を据える。これも道理である。不思議なものが〈実在〉の錘りを下ろしたらしいのだ。
《私が四十年間も放浪してきたフーテン老人のように思っている人がいるようですが、実は陶淵明のように生きてきたといってくださいよ。即ち“五柳先生いずこの人なるやを知らず、またいつの日生まれたるやを知らず”の心境ですかな。これはやっこ(乞食)精神にも通じているんですよ。最近はやっこさんがいなくかったのは残念ですね》
 五柳先生・森敦、六十二歳。『月山』の主人公「私」でもある。庄内平野をやっこのごとく転々と放浪するうち月山に魅せられ、麓の破れ寺で寺のじさまとひと冬を凌いだ。めしと大根のみそ汁だけで、猛吹雪の吹きに酔えたぜいたくな人柄である。その体験が小説『月山』となり、いきなり芥川賞である。六十代“新人論”で選考委員会はだいぶもめたようだが、「文学が老年の事業になるのは近頃の趨勢だし、六十代はむしろ成熟と収穫の時期でしょう」(中村光夫・“選評”から)という意見が多数を占めたようである。“候補”で凋落する新人群にあって、みごとというほかはない。
《太宰(治)君がこの賞をずいぶん欲しがっていたですな。落ちるたびに、女のくさったみたいに愚痴っていましたよ。彼に申しわけない気分ですよ。菊池(寛)さんが設けられた賞をもらうというのも因縁ですかなあ》
 記録によれば、森の文学的出発は昭和九年に遡る。旧制一高に在学中、菊池寛、横光利一に才筆を見こまれ、幸福な知遇に浴しながら書きあげたのが、東京日日新聞(現・毎日新聞)に連載された『酩酊船』。天才と謳われたことは、すでに“歴史”である。
 当然、菊池、横光の衣鉢をつぐかと世間の耳目を集めていたが、この“不肖”の弟子は、文壇の栄誉とのびやかな筆を惜し気もなく捨てて天空に消えた。まるで、詩人アルチュール・ランボーのまぶしい軌跡を辿るように──である。
菊池寛・横光利一のこと
 しかし、新進作家・森敦を追いかける編集者はあとを絶たなかったが、《酔っぱらっては書く書くといいながら、酔いが醒めるとその気が失せている》ので、しびれをきらしたK社の編集者、「汝は永久にダメな男なり」と絶縁状を叩きつけてきたそうである。《そんなのへっちゃらでした》というのだから、ますますランボーもどきである。
 森を口説き落として『月山』を書かせたのは、作家の古山高麗雄だが、『季刊芸術』二十六号の編集後記に『月山』のいっきょ掲載を果たした古山は、こう記している。
「森氏は菊池寛、横光利一に親愛された作家で、すでに畏敬すべき作品をいくつも書いている経歴の持主ですが、ジャーナリズムの光に当たろうとせずに書き続けられていたようです。それも悪くはないが、よき読者を一人でも多く得たいという気持を持たれてはどうですか、といって執筆を願ったのが『月山』です」
その『月山』には時間がない。つまり、いつのことやら見当がつかない。それを書いた森にも時間がない。時間をヨコに並べるとスジが生まれるが、彼のようにタテに切ってしまうと、骨をぬかれた曖昧な記憶が断片的に顔をあらわすようなのだ。
《苦節四十年といわれても、ピンときませんな。私には文学的修行の時期がなかったのですよ。していれば、もっと人相がちがっていたのじゃないですか。要するに苦労らしいことはなにひとつしてないんです。むしろ文学的には飽食していましたからね。小島(信夫)や斯波(四郎)や三好(徹)たちがうまくやっちょるなと遠くから眺めていれば、それで満足してたんですね。
……昔話をするんですか? もう忘れましたな肝心なことは。それでもよろしいわけですね……実は私は、今でもそうなんですが、傲岸にして不遜、のぼせ上がったダンディズムにおぼれこんでいたのです。なんというか、もっともらしい意味がくっついているものを全部否定しましてね。
デカダンもやりましたな。どっちも意味を認めないところが共通しているのです。それで、勝手になりやがれと思うと、人間強くなるものですな。
で、一高をやめちゃったわけです。菊池さんが、毎月八十円ずつあげようと申されますので、文春にでも雇ってくれるのかなと思ってましたら、そうではないのです。遊んでおれ、というのです。太っ肚というか大物というか、大へんな人物にぶつかったわけですよ。その頃の菊池さんといったら、えらいものでしたよ。
その菊池さんが亡くなった時、川端(康成)さんが弔辞を読んだのですが、その中でこういっていた。菊池さんという人は、少しも恩義を感じないでいい人だと。私もずいぶんお世話のかけっぱなしでしたが、恩義は感じませんでしたね。そういう雰囲気じゃないんですよ、無頓着なんですね。
横光さんという人は、菊池さんとは正反対でしてね。そっくり返って意識まんまんだったですね。でも、あれは背骨が反っていたせいもあるんですが。ほんとは、実にもの固い人でして、ある時、菊池さんが私にこういってましたな。横光のヤツは女は奥さん一人しか知らんよと。そして菊池さんは阿々大笑するんです。笑ったところをみると菊池さんはすご腕だったのかもしれません。横光さんは酒をのまない人なのに、毎晩のように私を酒場へ連れて行ってくれました。
 それがケッサクでしてね。女給さんをつかまえては、その髪形はなんていうの、と神妙に聞いてはノートにメモしているんですよ。家へ帰って奥さんに教えるつもりだったのでしょうね。ヤボなところが魅カらしい魅カでした。
 菊池さんも横光さんも、私に苦労をさせまいとして、心配りをしてくださったのですが、原稿を見ていただいたことは、いっぺんもないのです。そんなことには関心がない。
 親切に甘えていたのが、私をダメにしたことは否めませんね。わるいのは私ですが……。こんな生活ができるのなら、なにも小説なんて書かなくてもいいじゃないか。これがあっさりと文学を捨てた原因なんですよ。きっと》
月山への憧れ
 森敦との対語が進むうちに、少しずつ明瞭になってきたことがある。それは彼が、なにかを休んでいて、幸福な状態にあるらしいことである。そこには、一概に「怠惰な精神」と呼ばれることを拒むなにかが潜んでいるらしい。彼が次のようにいうとき、その「なにか」を暗示してはいないだろうか。
《私の小説『月山』の主人公がどんな人間なのか、どんな理由であの山へ行ったのか、わからない、と不満を述べる人がいるのですが、私にいわせれば、ヤボなこといいなさんな、といいたいのですよ。人は目的意識だけで生きているのではないでしょう? 『月山』ではそういう人物を徹底的に描いたつもりなんですが、そこがいよいよわからんということになるらしいのです。私のように、一生、安楽に暮らそうと思っている怠け者には、ものごとの意味や目的をつきつめて考えることが、苦手なんですな》
 ここで注意したいのは、『月山』の世界と、彼が生きている現実が一様に語られていることである。つまり、『月山』の世界の「私」は、現実に生きる私(=森)なのだが、現実に生きている人間が「意味」や「目的」を失うことは不可能ではないのか。一見単純な私小説に見えるこの小説が、私小説的な構図を超えるのはこの点においてである。
 ここには、森敦の希求がなければならないが、それに可能性を与えているのは、次のような「信仰」であろうか。
《たまたま一人の人間が生きていることはどうやれば証明できますか。生の中にいるわれわれには実は生はわからんわけですよ。生を外部から眺めなければいけないわけです。つまり死の世界から生の世界を見るわけです。われわれが生きているということは、また、死を忘れていることなんですね。ですから、生の中のどこかに死は必ずあるのです》
 森の「信仰」とはこのようなものだが、彼の希求が月山へのあこがれへと転化されるのは、両者の〈死〉のイメージが共鳴しているからである。《ともかく死の世界に行ってみないことには……》と森は考える。しかし、死の世界へ行っても、彼は生きていなければならない。それを可能にするのは、眠りの中の夢以外にはないだろう。夢見ごこちを〈死〉と仮定する以外、生きながら死ぬことは不可能だからだ。
 だから、森敦は「私」に次のようにいわせなければならないのではなかったか。
 
 教えられたように鶴岡市からバスに乗りましたが、次々に過ぎる庄内平野のおなじ町や村に倦んだのでしょう。落合の鉄橋を渡るころからうとうとし、ときにイタヤの葉の繁みから深い渓谷を見たような気がするものの、つい眠ってしまって大網についたのも知らずにいたのです。いつからともなく、とにかく山あいの渓谷にはいって見えなくなっていた月山が、また山の向こうに見える。(『月山』)
 
 生だいうても死のもどき、だまし、死だいうても生のもどき、だましなんでねえでろか。おらアときどき、ふとそんな気がすることがあるもんだけ。(『初夏桑』)
「休暇」の哲学
 しかし、死の世界のはずだったそこに彼が見たものは、《現実の生以上の生》だったと森は書かなければならない。要するに、彼が思考する生や死が、先に述べた「信仰」の構図の中で完結していることに注意しよう。したがって、「私」の中の生と死を形而上的に見きわめること──これが、森の生を生きる知恵としてあることを確認しておきたい。だから『月山』の登場人物たちは、作者の信仰の恵みを受けることで支配されているので、彼らの役目は、作者の台詞をせっせと代弁することにある。こういう屈折した「実存」が、本質的な意味で人間の問題にどうかかわるかの一般論はいまは考えないが、「実存」が固定化されたとき、現実はメルヒェンと化し、一枚の絵となることは確かであろう。
 ところで、彼が休んでいるものはなんなのか。こういうことではないか。人間は生きるばかりでなく、生きて死ぬのである。人間である以上、この“論理”を曲げることはできない。このようなア・プリオリな原理に支配されているのに、どうして現実の中であくせくしているのだ? さもなにかがあり気な顔をしているのだ? そんなのは束の間の相貌だということを知らないのか? そんな現実なら、おれは下りる! ──これが森敦のいらだちである。しかし、いかに現実を嫌悪しようとも、ほんとうに現実から下りることはできない。
 そこで彼は生きながら、〈生きて死ぬ〉というア・プリオリな原理を超えなげればならなくなる。どうせ死ぬのだ、それならオレは最初から現実を下りているような顔をしよう──と森は実際に考えているにちがいない。それが彼のポーズであり、「目的」や「意味」を失うという意味である。彼は彼の哲学の構造を組みかえ、ア・プリオリなあの「原理」の上に位置づけなければならないのである。
 したがって、彼がなにかを休んでいるように見えるのは、自分の哲学に不断の刺激を加え、これをじっくりと味わう姿勢がもたらすひとつの雰囲気であるといっていい。
 森は《ダンディズムもデカダンスもやっこ精神もみな同じだ》といっているが、この三者に共通している内容は「無意味」である。一高時代のダンディズム、『酪酊船』執筆当時のデガダンス、放浪時代のやっこ精神と、図式的に並べてみただけでも、彼の資質が驚くべき頑固な統一を保っていることに気づくのだ。それは彼が、現実を下りて、いわば「休暇」の中で自分の哲学を養ってきた精神的態度そのものといってよい。
ポーズとしての放浪
 彼の放浪が、そのためにとられたポーズであるのはいうまでもなく、他者の眼に世をすねたひねくれ者に見えようとも、彼はポーズを崩せない。だから、わざわざ月山の麓の破れ寺に住みつき、ひと冬を寺のじさまと猛吹雪の吹きに耐えるのは、単に美的な自然観照から出たものではない。彼は、『月山』に関して《繭の中にいるものの冬眠の夢です》といっているが、これを甘ったれて女々しいというには、森敦自身はあまりに勁い人間でありすぎるだろう。だから筆者は、その言葉を作者・森敦のテレと考えたい。テレもまたポーズになり得ることを彼は心得ていると思うから。
 放浪談に耳を傾けてみよう。
《いろんなところを歩きましたなあ。極端に暑いか寒いか、そのどっちかがいいですね。戦前だと思いますが、樺太のホロナイ河流域でヤクート族やオロチョン族とテント生活をしましたよ。零下三、四十度の中でトナカイ猟をするんです。
 彼らは風呂に入らんのですよ。私もその習慣が身についたせいか、今でも風呂は五ヵ月に一度入ればいいほうですかね。だけどくさくないでしょう。みんなきれいだといってくれますよ。もっとも“それにしては”の前置きがありますがね。
 給料はいらんからといって、カツオ船に乗せてもらい、太平洋をあっちこっち歩きまわりもしましたね。毎晩、漁師たちとバクチを打ってはうつつをぬかしていたものです。
 そらそう、東大寺にも長くいましたね。塔頭の名前は忘れましたが……ビフテキをごっつおうになり、タバコまで買ってもらっていたんですから、始末におえん奴と、坊さんたち思ったに違いありません。でも、なにもいわなかったところを見ると、私のほうが“坊主的だったからでしょうか。そこを出てからは、当時、奈良にあった志賀(直哉)さんの家にもやっかいになりましたな。三重県の尾鷲でダム工事に従事していたこともありましたね。これは戦後だったかな。
 やはり山形がいちばん長かったようですね。柳原、酒田、大山、吹浦、狩川……それから月山ですね。酒田でブラブラしていますと、あるお百姓が、私をよほどのモノ好きと見たのでしょう。龍覚寺という寺の和尚に紹介してくれたのです。その和尚が、月山の麓にいい寺がある、行って遊んどらんかというのがキッカケでしたね。竜宮城に行くようなつもりで出かけたのですが、乙姫さまのかわりにはじさまやばさま、あるいは後家さん、山海の珍味のかわりにめしとみそ汁だけでした。
 密造で食っていた彼らは、私が洩らすのではないかと恐れていましたが、そんな私ではないのです。そればかりか、じさまやばさまの千客万来でした。時々、東京からやってくる文学青年や小説家が私のところに泊まるので、私を偉い人だとでも思っていたのでしょう。そうそう、森鴎外と勘違いしている人があったのにはまいりました。
 月山を離れるとき、ばさまがひとりやってきましてね、私にこういうんです。森さん、あんたが村の人たちから好かれたのは、女に手を出さなかったからだ、と。これにはあきれましたね……賞をもらってから、私が定着したという人もいるんですが、違いますよ。どこにいても同じだというだけです。だけど、これから先生、先生なんていわれるの困りますよ。それだけはやめてもらわなくちゃ……》
伝説的人物・モリトン
 作家の小島信夫は、山形や尾鷲に数回、森を訪れている二十年来の友人の一人であるが、森について次のように語っている。
「森さんと知り合ったのは昭和二十五、六年頃です。一高時代から彼は、伝説的人物でして、“モリトン”と彼を呼ぶ人は伝説性を知っている人でしたね。たとえば、福永(武彦)君などは森さんに憧れていましたよ。教祖的というか、熱狂的に好かれるのです。私は、一高時代、ある受験雑誌で彼の演説の記録を読み、いたるところに、笑いの“笑”の字があるんです。これは聴衆が耳を傾けている証拠なんですよ。森さんをひと言でいうのはむずかしいが、たまたま小説を書いたというだけであって、彼の本領は、自然の力を借りて哲学するところにあるのではないか」
 また、作家・三好徹は、三好が新聞記者時代からの知己であるが、こういっている。
「根っからの自由人ですね。もし、森さんに既成文壇の権威主義みたいなものがあったら、私はおつき合い願わなかったと思う。小説がかくあらねばならない、などとは一言も口にされない。また、座談の名手でもあるのですが、それは決して人を楽しませるようなところは特にないですね。しかし、森さんはホメ上手で、決してわるいところの指摘はしません。名伯楽なんですね。
最近は、テレビなどに出演しているのを見ますけれども、あそこにあらわれているのは森さんという人物のほんの一部でしかないような気がしますね。身を入れて出ているとは思えません」
 筆者は、どうしても森の一人の姿を見たい衝動に押されて、東京・調布市にある彼のアパートを訪れた。森と酒を酌み交わしながら話し合ったおよそ十時間が、三好徹のいうテレビ出演におけるような彼の「ほんの一部」であっては困るし、小島信夫が指摘しているような“哲学者”の顔を確かめておきたかったのだ。驚いたことに、彼の室には文学書が一冊もないのである。ただ、ドストエフスキー全集が手つかずで積み重ねられてあるだけで、そのことに触れると、森は《まあまあ一杯やりましょう》と、極上のブランデーと、焼酎、ビールなどをしきりにすすめるのである。仕方なく? また酒を飲みながら話を聞くことになったのである。森が酔っぱらうのはもちろん少しもかまわないことであるが、ごちらが不覚にも酔ってはいかんと思い、あるいは酔わなくては失礼か? と逡巡するうち、名案が浮かんだのである。それはテープ・レコーダーを「ON」にしておけば、労せずして取材もでき、「ナポレオン」も頂戴できるというさもしい魂胆からであったばかりでなく、森もそれには大賛成であったことを告白しておかなければならない。以下はテープの忠実な記録を書かせていただけばいいようである。
《思い出を書いても、ちっとも小説にならねえんだな。思い出の時点まで遡って、生きなおすってぇことが大事なんだ。ケルケゴールがいってるぜ、反復ってぇことをさ。だけど彼の反復はさ、水の泡みたいにぶくぶくになっちゃってんだよ。だから感心しないね。そこにゆくってぇとさ、ドストエフスキーもカフカもすげぇ奴らだぞ。一網打尽的だよ。原爆だよ。それに較べれば、志賀さんはピストルだね。的は射るが、規模がちっちゃくていけねぇ……いま、私、ちっちゃな印刷会社に勤めてるけどさ、総理大臣の苦労も私の苦労も中に入ってる身には同じだろうよ。そう思わないかね……文学はさ、人生を含むことによって人生に含まれる、ミヤコハルミちゃんの歌だってそうさ。わかる? みんなコレスポンダンスしあってるんだぞ………オーイ、水をくれ》  (文中敬称略)
(本誌・柴田四郎)
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