023 森 敦氏にきく
星霜移り人は去る
『文壇意外史』をめぐって
出典:新刊展望 昭和50年2月号 昭和50年2月1日
 『文壇意外史」というのは、文壇で意外な者が書いたということだそうです。ぼくはそうは思っていないんですが──中学のときは大変な模範青年でしたよ。成績も学校で一番になったこともあるんですが、八十六番にもなったりして、一番になるともういいわいといった調子でね。一高(旧制)も入学したんですが、こんなものかと思って、やめてしまったんです。
 結局、人生を大きくみると十年働いて十年遊ぶといったことになりましたけれど、今は、最後の十年がきたと思っているんですよ(笑)。
 ぼくは遊ぶときは徹底的に遊んで、働くときには、がむしゃらに頑張るんです。ですから、まわりの人たちは、生意気な青年だと思っていたでしょうが、菊池(寛)さんや、横光(利一)さんなどからは面白い奴だとかわいがられましたよ。
 最近、大学あたりなどで講演に呼ばれて行きますと、ぼくのような生活、反思想的思想の持主に共鳴をもつというよりも、多くの学生はやってみたいといわれます。今のヒッピーなんだそうですね。人間は反対のことを要求しますから故郷に帰りたいと思うのと、故郷を離れたいという心、親に愛着をもつ気持と親の顔なんかみたくないという矛盾した心があるんです。非論理的なことになるかと思うと、論理的であるものが強烈でないとバランスが崩れて、実存できませんから。毎月勤めたいと思う気持と、サボリたいという気持があるわけで、それが一般的には共存していて、同時に満たそうと思うからできないんでして、それを少しズラすと、十年働いて、十年遊ぶということになるんですよ。
 ぼくは、実に、良い友達が多かったんですね。檀(一雄)君、三好(徹)君、小島(信夫)君にしても文壇のなかでも上等でしょ。田舎にいてもやってくるんで、文壇から離れていても、ずっと雑誌社から追いかけられていたんですよ。空腹感とか孤独感なんていうのはなかったんですね。
 東京12チャンネルの“人に歴史あり”の番組で八木(治郎)さんのセリフに「四十年の不在を人は放浪という。だがその言葉は森敦に似つかわしくない」とあったんですが、この四十年修練を積んでいたんではないかというのですが、そんなことはありません。ぼくの根元は何かと思ってつづったこの本を読んでいただくとぼくなりがわかっていただけますが。
 この本は、ぼくの生きかたを解明しようと思って、今までに形成されてきた性質とか、父母との関係、どうして文壇にでてきたのかと思い出しながら書いたんです。
 世情伝えられている、いろいろな作家ですね、菊池さん、横光さん、佐藤(春夫)さんにしても、普通は文学史的に書かれていますでしょ。ぼくは、肉感的に知っていますから、みているベクトル(方向)が普通の文壇史を書く人と逆になっているんではないですか。今の書く人は、現時点において書いていますから。ぼくはむしろ彼らより早く生まれてましたから過去と現在をおりまぜて、スパイラルに書いているんです。
 ぼくは、楽天家ですから、物ごとをあまり深刻に考える質ではないんです。ここが肝心なんですよ。人前でアガルなんていうこともないんです。アガったマネはしますがね。しまった、やられたということはありますが。そんな時は、よしやり返せと思うんです。小さいころから父親から、なにがなんでも武術を習えといわれたんです。武術が強ければ腕力をつかわないですむ、自信がつくし、物おじしなくなるから、大人になってから思ったことをいう男になると教えられたんです。で、柔道をやったんです。そのときの先輩が、またかならず得意の手を一つ修得しろと、練習させられたんです。
 『酩酊船』から歩いてきて『月山』まできたんですが、その間、ぼくの言っていることはかわってないんですよ。進歩発達はないんです。同じ手でずっときたんです。ですから、今日の下地は子供のころすでにできていたんですね。
 忙しいといったら、今が一番忙がしいんですよ。だんだん忙しくなっちゃってね。東京から逃げ出さなければならなくなっちゃったですよ(笑)。
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