037 私の食事観
    好きときらいの間に実存する 創作エネルギー
出典:月刊 栄養と料理 10月号 昭和50年10月1日
 出された名刺には、サラリーマンのそれのように「勤務先」が律儀に刷り込んである。六十歳を過ぎて第七十回芥川賞を受賞、話題になったが、文壇歴は古く、すでに新聞小脱『酩酊船』(昭和九年)を発表、短編『天沼』などの作品がある。旧制第一高等学校──現・東京大学中退。
 
 ──お食事はマメになさるほうですか。
森 朝と昼は自分でやります。だいたい六時半ごろに起きまして、まずオレンジを二つ割りにしてしぼる。これを一個分。牛乳コップ
二杯に卵を一、二個加えてミキサーにかけます。砂糖をほんの少し入れることもあります。あとで眠けざましにコーヒーか紅茶。昼食もこれと全く同じです。ものは食わんですから。
 ──すべて“流動食”ですね。
森 朝は食事が進まないんですが、無理にも入れとかないと、からだに悪いと思うからです。流動物ならはいっちゃうでしょ。昼食は
わざわざ考えるのがめんどくさいからです。
 ──では夜はたっぷり召し上がるのですか。
森 ええ。割合ぜいたくに食ってます。夜は十時からで、それまでは飲み食いしません。対談の場でも食わないから、皆閉口するんで
す。これは家にいても外でも同じで、時計を見て「ああ、十時だから」と、急に始めます。まずビールを一本飲みまして、日本酒かウイスキーを相当量。そのあといろんな料理を食べます。娘が会社から帰って、よせばいいのに時間をかけて作ってくれるんですよ。
 ──ハイカラな味がお好きですか。『月山』(芥川賞受賞作)に出てくるいなか料理風なものはいかがですか。
森 かぼちゃのいとこ煮、野うさぎのくし焼き、大根のみそ汁など、実は全部きらいです。月山では食うものがないから、泣きそうになって食っていましたが、山から帰った瞬間、また元にもどりましたね。
 ──もともと好ききらいは多いほうですか。
森 ぼくの著しい特徴は、煮た魚がきらいなこと。いったん焼いてから煮たのは食べます。名前を知らない魚、“人相”の悪い魚は食わない。野菜も煮たのは食べません。
 ──生野菜ならいいわけですか。
森 これは酒を飲むようになってから食べるようになりました。ウニ、うるか、ナマコなども。好ききらいの少なくなった最大の原因
は、酒ですね。
 ──ところで、おかあさまがなかなか愉快なかたでいらしたとか……。
森 ぼくの母親はフランス人が来ればフランス料理を習う、速記術が発明されると、これまた先生を連れてきていっしょうけんめい習
ってる。いわば文明開化の人ですな。
 ──食生活ではどんなご記憶がおありですか。
森 むすこが好ききらいするようになるのをひたすら恐れて、それはやがて人間の好ききらいになって現われる、と訓戒を垂れました。そういっては無理に口に入れたわけです。それを「かみなさい」といわれるから、ぼくはしかたなしにかむ。かむとのどへ行かないで、あべこべに外へ出てしまう……。
 ──食べ物の好ききらいは、生活の他の分野にも影響を及ぼすものでしょうか。
森 味の好ききらいは、ニュアンスの好ききらいになるわけですね。小説を書くとき自分の好かん人間、むしろきらいな人間に打ち込まなくてはならんこともある。きらいだとそっぽを向いてたら、小説が書けなくなる、というわけです。しかしぼくはあえて好ききらいをなくそうとは思わない。矛盾は一つのダイナミズムを起こす根源になる。その間に我々は実存するわけです。矛盾が強ければ強い
ほど、ダイナミズムは起こり、創作のエネルギーもそこからわいてくる。
 ──好ききらいなく、バランスのいい食事をとることが、いいことずくめではないということでしょうか。
森 調和のとれたものばかり食べさせてごらんなさい。なにかがダメになるような気がします。昔は三人寄れば、個性とまではいわな
くてもとんでもない顔をしたのや、とんでもなく小さいのが混じっていたのに、今は顔つきまで同じようになったでしょ。
 ──今の料理の傾向をどうお思いですか。
森 料理は非常に情緒的なものですよ。それを一歩誤まると装飾的になる。おふくろの味といわれるものは、そこまでには至っていま
せん。ところが今の料理は心よりも装飾のほうが先に立つ。そういうのを見ると、もたれるんだなあ。視覚にもたれちゃう。
 ──作る側としては、できばえの美しさも楽しみのうちで、それやこれやの小さい食い違いが夫婦げんかのたねにもなるようです。
森 料理で夫婦げんかしてるほうがいいです。それでなぐリ合いをしてれば、他のけんかが帳消しになる。しかし料理を侮辱されると、女性は最高に腹が立つでしょうな。買ってきた洋服をけなされるより、大いなる怒りを感じるんじゃないかな。
 ──どうしてでしょうね。
森 それは乳ぶさを赤ん坊に含ませるというように、自分のからだを食物にして分かち与える生理を持っているからじゃないですか。
 ──奥さんたちは、なにもいわずに食べられるのもつまらない、といいますね。
森 世のあまねく婦人たちは、だれのためでもない、自分のために料理を作ってるんですね。ぼくの母親も,ぼくが食ってると、なん
とも思わんか、なにか気がつかんか、と催促するんです。うまいか、どの程度か、とたたみかける。喜ばせたいのなら、黙って食べさせればいいんですよ。
(インタビューアー・藤原房子)
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