055 わが心のふるさと 『天草』
出典:美しい女性 9月号 昭和51年9月1日
 『月山』を書いたため、ぼくの生まれは山形だと思われがちですが、本当は長崎市の銀屋町というところで生まれました。幼児のうちに京城に引越したので、その長崎についてははっきりした記憶がありません。ただ、ぼくの中に残存している幾つかの長崎言葉──「アチャさんピー、たいこもってドン」これはシナ人に対する悪口です──から推測しますと、三、四才ぐらいまでいたんじゃないかというくらいです。
 でも、放浪作家といわれているぼくにも、心のふるさとともいうべき土地──天草があるのです。
 住んだことはありませんが、ぼくの原籍も天草になっていますし、幼児のとき、ときどき連れていかれて、「ここがおまえのふるさとだ」と教えられたせいか、長崎よりは天草の方がふるさとという感じがします。
天草洋に遊ぶ
 天草は景色が美しいことで知られています。
 とくに父母の家があった苓北町富岡というところは自然の恩恵をうけた、豊かな、そして静かな町です。天草灘に沈む夕陽は、子ども心にも人間の手の届かない荘厳さのようなものを感じさせずにおきません。
 それに内の海はおだやかに澄んで、荒れる外海の千々石灘とは好対照をなしています。私は一日中飽きもせずに深い藍一色の海で泳いだことを覚えています。あまり調子にのって泳いでいると顔に塩がふくので、あわてて泳ぐのをやめたり、夜になると海の彼方にイカツリ船が点々と見える、そんな楽しい思い出は今でも消えません。
 また、町の西の浜は林芙美子が小説の舞台にしょうと訪れたところで遠くは長崎から茂木を経て訪れた頼山陽が、
  雲か山か呉か越か
  水天髣髴青一髪
  万里舟を泊す天草の洋……
と、「泊天草洋」を誦んだことで知られています。
天草がつくる進取の気性
 その同じ海を越えて、かつてカラユキさんといわれた多くの女性が東南アジアに渡ったことを思うと、土地柄というものが人間の性格に与える影響をしみじみと感じます。
 最近、カラユキさんの悲惨さばかりを描いた小説がでているようですが、たしかにそれも真実ですが、決してそれだけではないような気がします。ある種の人たちは案外それを喜んでいたかもしれません。未知の世界へ思いきってとびこんでみたいという気持ちは、いつの時代も天草人の血の中を脈々と流れているはずですから。
 ぼくの父と母が満州へ渡ったのも、たぶんそういう土地柄のせいもあったのでしよう。
 父は富岡の町を訪れるといばって歩いたものですが、ふるさとを軽んじるというよりも、その気持ちの裏側に進取の気性が潜んでいたのではないかと、今になって思います。そのころのぼくは、「森のぼっちゃん」と呼ばれて得意になって父の真似をしていばって歩いていただけでしたが。
 母もこの天草の気風を受けつぎ、年齢をごまかしてまで日本赤十字の看護婦になって従軍したくらいです。その気性の激しさは老いても変わらず、死ぬ直前も「私が丈夫だったら敦には絶対に働かせない。好きなことをさせてやりたい」といって皆をおどろかせたものです。
ぼくの中に生きるふるさと
 ぼくが放浪の作家といわれるほど各地を転々としたのも、天草がつくりだす気性と無関係ではないでしょう。一つことがある程度わかってしまうと、それ以上がんばる気がしなくなって、また新しい分野に思いきってとびこんで行く……そうする時、ぼくは自分の中に天草の存在を意識します。
 ぼくは、決してふるさとに執着するタイプの人間ではありません。天草に住んだこともなければ、今後も住みたいとも思いませんから、むしろふるさと離れしているといった方がぴったりです。
 それでも時々、自分の考え方や行動の中に、父や母からうけついだ天草の血を感じ、おどろかされます。ふるさととは不思議なものです。(談)
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