064  作家の素顔とその思考 森敦の僕の旅は哲学 
出典:新しい女性 昭和52年11月1日
 今月は緑に囲まれた閑静な東京・市ヶ谷の、まるでその人柄を象徴するような白壁のお宅に、森敦さんをお訪ねしました。
 
──放浪の作家と呼ばれる所以をお聞かせ下さい。
 僕は決して放浪したわけではありませんよ。第一高等学校を止めてからも東京にいて小説を書いておった。新聞小説を頼まれそれを書いていた。だからといって小説で一生飯を食おうなんて考えてはいなかった。学校を止めたのは、何も学校など行かなくてもいいんじゃないか、という気になって止めたわけですよ。
 ある日、檀一雄が遊びに来た。その後ここにも秀才がいると、太宰治を連れてきたわけです。ここに、森・太宰・檀という三人組がそろったわけですが、その後別れて、僕はまず、奈良の東大寺で一年ほどやっかいになった。その後、奈良公園の南の端を限っているひとつの丘陵、瑜伽山という山の上に、枯山水のある家を見つけ、その家の離れに住んでおったんです。そのうちまあ、ここにばかり住んでいても仕方がない、と漁船に乗ったわけです。夏はカツオ、冬はマグロの漁船で、給料はくれなかったけれど、飯だけは食わしてくれる時代だった。決して豊かではないけれど生活には困らなかった。
 まあ、そういう生活をしているうちに、森・太宰・檀は順序が替わり、太宰・檀・森になりいつの間にか森はいなくなった……。
 そのうち戦争が近づき、ある光学会杜に勤めたんですよ。一高中退で、本当の学歴は中学卒業だからどこでも雇ってくれた。しかし勤める以上は他人に負けたくないし、なまけるのも嫌で、一生懸命働いた。そして相当の金持になった。ああ、これで一生遊んで暮らせると、女房を連れて気のおもむくまま(あまりひどい場所なら実家に帰したけれど)あちこち歩きましたよ。『鳥海山』という本の中の「鴎」を読んでもらえばわかりますよ。
 ところがインフレーションの計算を間違えて、一生遊べると思ったのが十年ばかり遊んでいるうちに金がなくなった。で、当時資本金五百億円だった大会社、電源開発に勤めたんですよ。臨時雇いだったけれど、たちまち総裁の目にとまった。不思議な男がいるといわれた。不思議なはずなんだ。そういう所で働いている人は、自分の学校と自分の会社しか知らない。しかし、僕は日本全国を歩きいろいろな人達と接触しているから、用地係ではなかったけれど、その方面で、ある相当の役割をすることになるんです。役割をし始めると夜も寝ないでがんばりますからね。女房など僕がムチャクチャに働いているのを見るだけで疲れると言ってましたよ。
 そうして十年目に相当の金がたまり、これで一生働かないでも食えるだろうと思っていると、また十年目にインフレーションで、今度は現在も勤めている印刷所、そこへ行くことになったわけですよ。
 小さい印刷所だけれど、同人雑誌の印刷をやっていたので文学青年や、昔から知っている人がよく話しに来たから、文学的には孤独ではなかった。
 ある同人雑誌にたのまれて書いたら、それを新聞社が見て、「森さんは書かんと言いながら書いているじゃないか」と言われ、酒を飲みながら、書くと約束して書いたのが実は『月山』なんです。
 放浪というのは計画もなく歩き回ることでしょう。僕の場合はそうじゃなくて、人生の設計をしているんです。そこではちゃんと家を借り家賃を払う。そして地図をひらいてこの次はどこに行こうと決めているから放浪とはいわないんじゃないかな。僕の作品を見てもらえばわかるが、放浪というのは誤解ですよ。
 
──何故、月山に行かれたのでしょう。森さんにとっての「月山の世界」をお聞かせ下さい。
 たまたま鶴岡の龍覚寺という寺で方丈という和尚さんに会ったんですよ。その時僕は大山という小さな町に住んでいたんですが、「山の中に番人のおじいさん以外、人も何にもいない寺がある。夏なら住めるでしょう。夏の間だけでも行ってみたらどうですか。緑もキレイだし、紅葉の終る頃帰ってくればいい。」と言われて行ったのが月山なんです。その時女房は実家に預かってもらっていた。
 当時は農薬を使わないから大山では蚊がものすごくて、昼間でも蚊帳を吊り、その中に机と電球を入れて本を読んだり、寝ころんだりしていたんですよ。その点月山は標高が高いから蚊はいない。また山は涼しいし、緑はキレイだし、紅葉の頃はいいし、というんでとにかく行ってみた。だからはじめは、月山を書くつもりじゃなく、何の目的もなかったんですわ。
 行ってみたら本当に蚊はいないし、これはいいわい、とぼんやりしているうちに雪が降ってきて、もう帰るといったら、まあ待て、というわけです。雪というのはあの山に降り、この山に降り、それからオラが村に降り、根雪になり、それから本当の雪になるから心配するな、というわけです。ところがその年に限りものすごい雪がいっぺんに降ってきて、帰れなくなってしまった。ぼんやりと春まで過ごしていたら友達が尋ねてきた。まる一年ではないけれど、足掛け一年いて、その友人と山を降りたんですわ。
 不思議なことに長い年月たってみると、東大寺あたりで学んだものが、そこで生きているのを感じるんです。そうでなくても、月山をはじめとする出羽三山は山岳宗教のメッカみたいなものでおのずからそこに感じるものがあるわけです。その感じたものが『月山』の世界ですよ。
 
──「旅と人生」についてどのようにお考えでしょう。
 同人雑誌に書いた『光陰』という小説。15枚くらいでしたが、何のために光陰といったかというと、光陰とは時間のことでしょう。『奥の細道』の書き出しに「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」とあるが、それは本当は李太白といって、中国、盛唐の大詩人の作によるんです。つまり李太白の詩の中に「それ天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客なり」というのがあり、芭蕉はそこからとったんですね。天地というのは万物の宿であり、時間というものは百代の旅人であるということです。
 それで『光陰』にもどると、僕はその時、大山という小さい町の大工さんの二階に住んでいて、人生は旅であり、俺は旅人であったのか、と思ったわけです。だから本当は「過客」つまり過ぎていく客という題名にしようと思ったけれど、それではあまり野暮なので『光陰』という題名にしたわけですよ。
 それはどういうわけでつけたかというと、「光陰は百代の過客」だから、少し学問のある人なら、ああこれは旅人とはいわず、洒落て光陰すなわち時間といったんだな、と察するはずなんです。僕の旅は全国をまわっているうちに段々とそういうふうに哲学的になってきたんですね。自分で求めてそうなったというより、旅を重ねているうちに、哲学ができてきた、といっていいかもしれませんね。
 
──旅の今と昔、について御意見をお聞かせ下さい。
 昔はたくさんのコジキ(ヤッコ)があちこち歩いていた。もともとは遊行者といって坊さんが、自分の主義主張を流布宣伝するために歩いたんです。芭蕉もそういう意味で歩いたわけです。それが昔の旅です。
 現代の人間にも全く意味は異なるけどヒッピーってのがいるでしょう。あれは近代コジキですからね。僕らの時代にも先輩を尋ねて行くと、次の先輩を紹介してくれるような風潮があった。その点は芭蕉も同じょうなものだったでしょう。ある場所に行くと次の宿に行くまでの旅費をもらって旅をする。そのかわり俳句をつくる。
 ところで昔の女性はそういう意味で旅することはほとんどなかった。ただ家をしっかり守っていればよかった。しかし、女性が全く旅をしなかったというわけではなく、女コジキもいたし、ゴゼのような人もいたんです。それから旅芸人もいました。しかし、越後なら越後と、歩く範囲は決まっていたんですわ。
 昔の旅人が山形県を一周するのと、現代の旅人が日本を一周するのとでは、山形県を一周する方が遠かったんでしょうね。だから奥の細道を芭蕉が歩いて一周したということは世界一周旅行を飛行機でするよりもはるかに困難であり、広大なる世界を歩いてきたということになる。世界は次第に小さくなっていますからね。それはつまり時問が短縮されれば従って空間も短縮され、時間が広大になれば空間も広大になる、ということで、すでに物理学で証明されています。四次元の世界の考え方ですね。
 すなわち空間のたて・よこ・高さに時間を加えたものが四次元の世界です。
 先日も月山に行ってきたんですが、最近の旅行者を見て感じることは、知らないというのか、大胆不敵というのか、ムチャというのか、たとえロープウェイで上ったとしても、千メートル以上の山であるのに全くの軽装なんですね。雪でも降ってきたらどうするのか、と思いますよ。
 まあ、現代、このように気軽に旅することができる、というのは風俗の変遷というのか、いい時代になったということでしょうか。芭蕉がみたら驚くでしょうな。

──森さんにとって理想の女性とは。
 調布のアパートに住んでいた時のことですが、部屋が手狭になったので、次々空いた部屋をまるでハチの巣の如く貸りていったわけです。それでもまだ結婚前の女性が何人か住んでおり、自分一人固く暮らしている人もあれば、土曜、日曜日に男性が訪れる土曜緒婚、日曜結婚をしている人もいたわけです。僕は全くそれらが気にならず、無関心で、干渉もしなかったから、彼女達は不思議がるわけです。当時は僕も今ほど名前を知られていませんでしたからね。男性の方は、最初は恥ずかしそうにしているけれど、二度三度会ううちに、挨拶をしてくるようになり、男性の方が彼女に、「あそこにいるおじいさんに持っていってあげなさい」と、トンカツなどを届けさすんです。だから男性が女性のところへ来なければ何も持ってこないんです。
 僕には理想の女性像がないから、無関心でいられたし、かえって向こうが親しみを感じたのでしょう。
 若い頃、母親が見合いをすすめるわけですよ。僕は女性であればいい、と思っていましたし、母にもよく「お母さんは髪は天然パーマだし、鼻はあるかないかわからないし…」と言うと本気で怒っていましたが「しかし、調和はとれている。美というものは調和がとれているということですよ」というとたちまちニコニコしておしる粉などつくってくれた。ある日、あるだけの見合い写真を全部机の前に貼っていたら、母がそれはびっくりしてはずしてしまったんですよ。それは全部弟のところにきた写真でした。弟は真面目な青年でしたよ。だから僕は見合いの経験はありません。当時、見合い結婚でないのは珍しかったんじゃありませんか。
 ところで最近の若い女性は個性的になってきましたね。それぞれが個性的になったということは、女が解放されてきたということでしょう。解放されないと、画一的になる。
 ただ個性的になったのはいいことだけれど、自分の個性というものをよく知って欲しい。個性と模倣を勘ちがいすると大変なことになる。本当の意味で個性的であればそれは美しいものです。
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