068 テレビと私
出典:週刊テレビ番組 3月10日号 昭和53年3月10日
 私のテレビの見方ははっきりしていて、朝は絶対にNHKを見ます。『カメラリポート』、『スタジオ102』、天気予報、『風見鶏』と見て、机につきます。
 それから今度は民放を見るのですが、夜になると『NC9』や『新日本紀行』“宗教番組”“ドキュメンタリー”などを見ています。
 朝、NHKを見るのは時計代わりみたいなものです。民放の場合には、CMになると時刻表示が出なくなりますので、必然的にNHKを見るようになります。ニュース、天気予報をNHKで見るのは、単なる習慣なのかもしれません。ただ、ニュースの場合は、民放にも記者はいるのですが、NHKは大新聞に匹敵する数の記者を持って、大新聞と競ってニュースを追いかけているのを評価して見ているということはあります。
 ところで、天気予報については面白い経験をしたことがあります。かつて、民放の方と取材で月山に行ったときのことです。着いた当日は大雨が降っていて、翌日からの取材がどうなるかと思い天気予報を見たのです。
 あちらの民放は山形テレビか山形放送しかありませんから、そのどちらか一つだったのですが「明日は晴れます」といったのでホッとしていたところ、民放のスタッフの一人が「あと五分したらNHKの天気予報がある」というのです。五分後、NHKの天気予報が出まして「大丈夫」ということになりました。
 あとで本人に聞いてみると、天気予報は同じところから流しているということでした。民放に勤めている人がNHKの天気予報を見ているのですから、私がNHKのを見るのは当たり前でしょう。
 このように、私は比較的テレビを見る方です。かつてテレビを花火にたとえて話したことがありますが、それをむなしさの表現と取った人もいたようです。
 私はいつも“存在は表現である。表現なくして存在なし”といっています。テレビは非常に強い表現力を持っています。表現の強さは“起爆力”の強さいかんにかかわっていて、起爆力の強いものほど痕跡をあとに残しません。こう言ったのを誤ってむなしい花火と取ったのでしょうが、後々まで残ると思われている活字文化についても同じようなことがいえます。新聞、雑誌などの活字が百年後にも残るものと錯覚しているのです。論語などは別にして、私などと同じころ文学を始め、芥川賞を取った人で、もう忘れられた人は沢山います。中島敦、梶井基次郎みたいに現在まで読まれているのは、むしろ稀れといえるでしょう。たしかに起爆力の大きなものは消えるのも早い。表現力の強さを消えることの早さで計ってみてもいいと思います。
 ただ、これからのテレビは変わってくると思います。ビデオカセットが発達してきて、良い番組、重大な人の話などはライブラリーされていくと思います。(文責在記者)
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