070 この人と30分
    熊本辯はむしろ使った方が
    作家 森敦
出典:暮らしと県政・熊本 三十四号 昭和53年7月1日
 皇居の外堀を見おろした市ケ谷の閑静な住宅街に白塀に囲まれた洋風の館がある。
 「おかげ様で世に知られるようになってから、いろんなふるさとで錦を飾っています。」 六十歳をこえて芥川賞を受賞した森さんは、とても若々しく、厳しい冬の「月山」にこもった人とは思えない。最近では、テレビや講演等にひっぱりだこの毎日である。「熊本人はフルに熊本の性質をひきだし、むしろ熊本弁を使った方が」と話してくれた。
 天草郡苓北町出身、京城中・旧制一高中退 明治四十五年一月二十二日生れ、六十六歳、主な作品には「月山」四十九年第七十回芥川賞、「鳥海山」等がある。現住所東京都新宿区市谷田町3-20
いろんなふるさと
 僕は、明治四十五年一月二十二日熊本県天草郡富岡町(現苓北町)に生まれたというんだけど、母親から聞いているところでは、一月一日に長崎で生まれたんだと、だけど両親が富岡の人間ですから籍は熊本にはいっているわけです。僕が世に知られるようになった時、本当は長崎生まれらしいというので長崎に呼ばれて大変な歓待を受けたことがあります。そしたら、実際は熊本だというわけで、教育団体等に呼ばれて非常によくして頂いたわけです。
 物心ついた時は、朝鮮(当時)の京城(当時)にいたんです、だから、「我が心の故郷は韓国のソウルである」と演説したので、当時の首相から招待状がきまして大歓迎を受けました。
 苓北の森実町長は親類です、子供の時には非常に可愛がってくれました。朝鮮から絶えず帰っていましたから、そういうわけで兄弟みたいな感覚を持っているわけです。
 勿論、熊本の方にも出たことがありますから、朝鮮飴を売ってることも知っています。あの羽二重みたいな柔らかい飴を朝鮮飴といってますけど、熊本にしかないんです、何が故に朝鮮飴といっているのかわからんのですよ。
 僕の母親は、東京に出て赤十字社の看護婦になったわけです。日露戦争の従軍看護婦になるためです。そのときもらった勲章とバルチック艦隊だけが唯一の自慢でした。
 あとは、熊本の女性ですから政治の話が好きなんです。
 小学校、中学校は朝鮮の京城です。だから僕はいろんなふるさとを持っていていろんなふるさとで錦を飾っています。
島者は雄飛する
 京城中学から旧制一高にはいりました、京城中学というのは朝鮮のナンバーワンの学校でして、昔は不思議なことに運動部の強い学校は勉強もうまいんですよ。今の学校はそうじゃないようです。名門校というのは受験名門校か、野球の名門校なんですね。あの当時、毎年一人位は一高にはいっていたんじゃないですか、僕らがはいった時に熊本の済々黌からきたというのは一人もいなかったくらいですから、しかし熊本には五高がありましたからね、で五高の生徒はえらくないかというと、五高時代というのがあったわけで、それで一高の記章と五高の記章はよく似ているんですよ。私がいつ頃朝鮮に渡ったかよくわかりませんが、島者には雄飛する気風があるわけです。ナポレオンだってコルシカ島ですしね、だからどっか遠くへ行きたいという気持をものすごく持っていると思うんです。それを辛抱している奴は金持の息子か怠け者かです。それで、朝鮮、満州というのは、ほとんど九州弁で押えられていてなかんずく熊本県が主流になっていた。だから僕らも「ぱってん」とか、そういう言葉は使わなかったけど、どこかアクセントとかイントネーションとかね、歴然として熊本の痕跡が残っていたんです、両親が熊本だからですよ。
専門家の記録
 一高は面白かったですよ、英文科ですが、一高は文科とは言わないで、英法というんです。立身出世を重んじた奴がいたんですね。その頃の学生生活はとても愉快でした。僕は腕力もありましたし、向こう意気が強いですから、熊本の女の性質、母親は熊本の女ですからね。運動というのは今みたいに専門化していないんですよ、何でもやらざるを得ない、青びょうたんでない奴は柔道も強ければ、走るのもやれと、それが足腰を強めることになって、今でも柔道の人は走っているでしょう。水泳もそうです、でも当時の記録というのはおしなべて今みたいな専門家の記録じゃないですからね。あの専門家の記録というのは、限界を越しているんです。僕らは専門家の記録は要求されていませんから勉強も十分にやるわけです。
 だから、今の高校生みたいに専門化した運動競技に比べたら、昔は強かったというのは嘘じゃないですか、ものすごく専門化し、合理化して、だから強いことは強いが、足が折れたりすることになるんじゃないですか。
勘違い
 横光利一に師事したと言われるので、師事ではないということにしたんです。師事以上であったかもしれません。誰にも生涯師事したことはないんです。横光さんの奥さんがよく言っていましたが「横光さんがめずらしく大きな声を出して笑っていたら森さんが来ているなあ」と、だから師事なんかせんです。僕の文学と横光さんの文学とこれ程違えば、文体から違うし、考え方から違えば全部違う、朝日新聞社発行の文壇意外史にはっきりでています。
 当時、僕は師事したもしないも大体文学志望じゃないんですから、親父が政治やって食いつぶし、書家かなんかで食っていたんですから、僕は将来何になるかというので「政治家になる」といったらものすごく喜んで、だから政治家になるつもりだったから文学なんて馬鹿にしていたわけです。今でも政治家は文学を馬鹿にしているんじゃないですか。
 菊池寛は僕が京城中学の時に講演にきていまして、それで何かこっちは知ったような気持になって、あのテレビによく出ている人の顔をみると昔から知っとるような気になって挨拶する人がいますね、あれと同じですよ。ところが、菊池寛の方は、小遣銭なんかくれますから喜んでおじゃましていると僕を文学青年と勘違いしたんです。横光さんと川端康成という人は菊池寛のところに居候していましたから、それで「君、つきあうなら横光君とつきあえ」ということなんです。
 それで僕に何か書いてみないかというんです。書かしたのは菊池さんだけど、菊池さんの名前でも良かったんでしょうけども、横光さんが推せんしているとあの当時はきらめく存在でしたからね。ものすごく可愛がってもらったんですよ、それで僕は一高をやめたんです。その頃から毎日新聞に書かないかといわれていたんです。僕が口がうまいから、大体作家というのは口下手ですから、これが小説を書いたらどんないい小説を書くだろうなんて思っておった。片方では、いろいろ思想的なことなどで、こんな学校にいて知識勉強したって何になるかと、知識を捨てることこそ知恵に至る道であると想像もできないことを考え出して、それでやめてしまったんです。今頃、文化勲章なんかもらった人もいますから、あるいは林健太郎、丸山真男なんかもやがてもらうでしょう。俺も学校でていたらなぁ、文化勲章なんかもらえたかもわからん、残念なことをしたと笑って彼等にそういっています。
 それから一、二年して奈良の東大寺に行ったんです。その時に檀一雄というのが僕のところに訪ねてきたんです。それでここに秀才ありというんで太宰治をつれてきたんです。奈良の東大寺ではえらく歓待されまして、仕事は何もしませんでした。実に愉快な十年でしたよ。
開発的人間
 いよいよ戦争になって働かないわけにはいかないから、光学会社に働いたんです。学歴がないから臨時みたいなことをやったんですが、社長から認められて、部長ぐらいにはなっていました。その間も作家活動は全然行いません、文学で飯をくおうと思ってないから、やめる機会があったらいつでもやめますから、だから光学会杜で部長になったりしたんですが、文学青年にはなれませんよ、そんなに社会はあまくないですからね。
 糸川英男が「現代で最も開発的人間」は森敦だと書いているんです。それは会社に行けば会社でバリバリやるからですよ。文学だけでやったら開発的人間とは言わないんです。それで、「歴史的開発人間」は大村益次郎というんだから、大村益次郎と僕らしいんです。
 森さんはいっこうに書きませんね、という人がおるんですが、書かないというんじゃなく岩波の「世界」やなんかに書いているんで、「女性自身」かなにかに書いておればみんな知っているんでしょうげども。
希少価値
 「月山」は賞をもらった四ヶ月位前に書いたんじゃないでしょうか。僕が十年働いては十年遊ぶという生活をしていましたから、それで、やめることは一高時代から天才ですから、月山の時には、僕は文壇的には孤独ではなかったんです。絶えず山に行ったり、山に作家が訪ねてきたり、編集者がきたりして、昔を思い出して、希少価値がありますから、僕に書かせようとして、いろんな人がやってきていたわけです。僕はホラをふく癖があるんです。大言壮語するんです、これも熊本人の血でしょう。「俺がやったら、そんじょそこらの小説は書かないと」「そうだと思ってお訪ねしました」なんてことを言って。
 芥川賞は、候補になる前に大騒ぎになったわけです。あらゆる新聞で書きたてたわけですよ、それは僕が希少価値があったということと、その道の玄人は僕の名前を知っていたということで、他の人よりは目をひいて、やる前から騒ぎになっていましたから。こういうこともあったんです。昔は僕は芥川賞をもらえない人だといわれていましたから、なぜかというと、芥川賞は新人にあげる賞ですから、ところが僕は大新聞に書いたりして新人ではなかったわけです。世間的には新人みたいにしか見えないわけですよ。だから、ひょっとしたら芥川賞はいらんというかもわからんという議論があったらしいんです。
 そこで僕の考えは全く違っていたんで、勝負の土俵に出された以上は、勝負はせにゃならんので、そこで負けようと勝とうと仕方のないことなんだと、そればかりではなく、芥川賞をつくった人は菊池寛であるということ、それに対して僕は何んの拒否することがあるのかということです。取材なんかしたことはないんです。月山には取材のために行ったんじゃないんです。書こうなんてさもしい感清をもっていたら「月山」は書けんのじゃないですか。あるいは「鳥海山」を書こうと思ってちょこちょこっと行って書けたらそれは天才ですよ。檀ふみちゃんが僕とNHKで対談するために行ってきたんですが、近頃は一万人を超える参拝者があってどうにもならんようです、今度映画になりますからね。
熊本の自慢
 熊本について提言というのは格別ないですが、熊本に生まれたというのは宿命ですから、これに反抗してもしょうがない。フルに熊本の性質をひきだし、むしろ使った方がいいんじゃないですか。まあ、独立自尊というか、俺が俺がという気持が強いんですが、反面、強きには弱いけど、弱きには強いんです。熊本人はモッコスだとか言ってますが、これは熊本が背負っている宿命、運命、歴史そういうものが、そういった性質をつくっているのでしょう。それから、熊本の人は、何が自慢かさっぱりわからんけど、東京にきても熊本弁を使っていばっているんですよ。だけど、がいして嫌らわれている県民じゃないですね、というのは、熊本だという時には、なんか熊本を自慢らしく言うもんです。自慢の根源は不知火海と有明海と阿蘇山だけなんです。熊本の人は覇気がある、その覇気を十分にいい方に使ってもらいたいと思います。阿蘇と有明海しかないというけれども、阿蘇山はめずらしくいい山です。不知火海もいいですね。
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