079 人物サロン■日本人の心を語る 酒こそわが人生
出典:酒と日本人 昭和54年12月15日
●森 敦 作家 明治四十五年(一九一二)熊本県天草に生まれる。旧制第一高等学校中退。菊池寛に認められ、横光利一に師事。「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に連載した『酩酊船』で新進作家として脚光を浴びたが、筆を折って放浪。
 昭和四十八年(一九七三)、六十一歳で第七十回芥川賞を小説『月山』で受賞し、一躍注目を浴びる。五十四年(一九七九)、『月山』は映画化され、高い世評を得た。その他の作品に『鳥海山』『星霜移り人は去る』『私家版聊齋志異』などがある。
酒を飲み始めたころ
 高等学校──本郷にあった旧制の第一高等学校ですが──はいると、ひとなみに酒を飲みタバコを吸いはじめたんですが、いわば意気で飲んだんです。酒は徒党で談論風発しながら、勢いに乗じて飲むべきものとばかり考えていましたので、たまたま友人が一升瓶を買って来て、寮でひとりでちびちびやっているのを見て、変わったのがいるもんだなと思ったぐらいです。そのころはまだ二十前で、ほんとうの酒の味なぞわからなかったんですな。
 ほんとうは徴兵検査──当時は学生以外は二十になると徴兵検査を受けることになっていました──がすまないと、酒もタバコも飲むのを禁止されていたのですが、高等学校にはいれば成人式を済ましたみたいなものです。酒もタバコもどんどん飲んでいい、こういう特権を持っていたんです。だから、巡査の前で酩酊しても、タバコを飲んでも、咎められたりしないのです。
 いや、第一高等学校の正門の前に、ポストの置き交番がありましてね。本郷通りを荒らして酔っぱらった学生たちが、それに小便をひっかけたり、「わァーッ」とそいつを押し倒したりするんです。しかし、その交番にいる巡査も、一高から東大を出た先輩なんですよ。一応回されて来ているんですね。菊池寛の小説『出世』じゃないが、やがて出世すると思っているせいか、「ひどいことするなよ」と言うだけで、別に怒ったりもしないばかりでない、よろける学生たちの尻を押してやったりして、もう閉じられている正門によじのぼり、乗り越えようとするのを援けてやったりしてるんですよ。交番にそんないたずらをやらかす学生たちも正門をよじのぼらなければならない。「正門以外のところより出入りするものは、犬猫といえどもこれを撲殺す」という独特なオキテがありましたからね。ぼくなども「斗酒なお辞せず」なんて豪語しながらも、この交番にいたずらし、揚げ句の果てには正門をのぼれず、ご厄介になったりした口ですが、修練というもんですかね。いつかほんとに「斗酒なお辞せず」というようになりました。
 吉原のことを廓の中という意味からか「なか」といいますが、その「なか」の中に酒を飲ませる店がありました。場所柄、粋な店で登楼する客がよく一杯飲んで行きました。「菊ちゃん」「にきちゃん」という小町娘がいましてね。ぼくもいっぱしの粋人気どりで、毎夜のように本郷から浅草まで歩いて通ったものです。当時、ぼくが学友たちに吉原で遊ばせてやるといって連れて行き、みなを登楼させて、自分はひとりどこかに行ってしまったという話がありますが、こんな伝説が生まれたのも、そのためでしょう。
 やがて、ぼくは籍をおいたまま学校には通わなくなりました。「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」、後の「毎日新聞」に連載された小説『酩酊船』を書きはじめたりしたからですが、そんなことから檀一雄が訪ねて釆たのです。その檀一雄がまた「ここに秀才あり」なんて言って、太宰治を連れて来たんですよ。それから三人でよく飲み歩くようになりましたが、「泉鏡花は銀の薬罐でグラグラ煮て飲んだそうだ」などと言って、手で持てぬくらいな熱燗を注文したり、「葛西善蔵がこよなく愛したそうだ」などと言って「爛漫」を出させたりした。つまり、文学で飲むようになったんですな。
奈良で覚えた酒の味
『酩酊船』が発表され、それが縁になって奈良の東大寺の上司海雲さんに呼ばれ、檀や太宰と別れ東京の生活を打ち切って、塔頭のひとつ勧進所にご厄介になることになりました。上司さんもいい意味での酒飲みで、心豊かな人だから、ひとりでいても酒を飲ませてくれる。ぼくは初めて昼酒の味を覚えました。昼間から勧進所の広い座敷でひとりでちびちびやりながら、春風駘蕩の気分を味わったものです。酒は勢いにまかせて、あびるように飲んでいたものですが、これでようやく酒に親しむようになったといえますかな。奈良には地酒もいろいろあったでしょうが、、覚えているのは「春鹿」です。それをほどよく温めて、銚子から藍色の模様のついた薄い白磁の盃に独酌して飲む。薄い白磁の盃はあたかも美人の唇の如しなァんて言ったりしてね。
 といって、こんなにいい酒をひとりで飲んでいたばかりではありません。阪中正夫や兵本善矩らとよく大阪まで飲みにも行ったものです。彼らと大阪に出て飲みはじめると、つい地金が出て荒れちゃってね。大軌電車で帰るカネまでなくなっちまうことがあるのです。たまたま、兵本の知っている人が区役所に勤めているというので、そのひとの下宿に借金に行ったんですが、とても快く迎えてくれて、「一万円でいいか」と言うんです。一万円といっても驚くことはない、じっさいには一円のことなんですが、一円でも大金です。当時は勤めていればカネを出すのがあたりまえ、勤めていなければ出してもらうのがあたりまえと、だれもが思っていましたから、いやありがとう、助かったよと言うだけで返す気持ちなんかないんです。
 阪中には『馬』という戯曲があり、前進座のあたり狂言になっていました。飲んで文なしになったとき、たまたま通りかかった劇場で、前進座が『馬』をやっている。阪中はしめたとばかりニッコリ笑って、河原崎長十郎さんからカネを借りて来たこともありました。また阪中はNHKに行って、「講演するから前借りさせてくれ」と言ってカネを借りて来、「講演の前貸しはしたことがないんだがなと言われたよ」なんて笑っていたこともありました。これらのカネはほんとうは奈良に帰るためのカネですが、スイトビールなんてビールを見つけて、「おや、へんなビールがあるぞ。ひとつ飲んでみるか」ってまた飲み明かしたりしちゃってね。揚げ句、大軌の小坂に途中下車して朝食を食い、また大軌に乗って、やっと奈良に帰りつくといったていたらく。いや、小坂にはいまのPL教団、人の道という教会があってね。朝詣りに来るものには、だれにでも朝食を振る舞ってくれたんですよ。
 しかし、それはたまたま大阪という大都会へ出掛けて行ってしたことで、奈良に戻ると奈良というところがそうさせるのか、おのずとこんなふうな飲み方はしなくなる。東大寺の二月堂に茶屋があり、うどんに厚揚げなど乗せて売っている。いくつかに仕切られた小さな座敷もあり、そこに上がると彼方に生駒山、眼下に大仏殿の大屋根が見える。煮しめた厚揚げをさかなに徳利の酒を飲んでいると、大仏殿の大釣鐘をつく音がのどかに聞こえる。陶然としてこうして飲む酒こそほんとうの酒なのに、なぜ大阪まで出て荒れなければならんのか、われながらそんなことを思い返したりするのですが、そんなときたまたま志賀直哉さん──まだ『暗夜行路』が完結をみぬころで、奈良にいられたんですがね──が、なんでも横笛を吹かせたら日本一だという人を連れてみえ、「やってるね。ここならいくら飲んでもいいから飲みたまえ」と言われました。志賀さんは飲まれなかったようですが、懐しい思い出のひとつです。
母にすすめられた酒と女
 母は「男は酒やタバコぐらい飲んだほうがいい。酒もタバコも飲まぬようなおもしろくない男になってもらっちゃ困る」と、言って笑ってたぐらいでした。母はむろんまじめな女でしたが、明るくほがらかで、どことなくこっけいなところがあるんですよ。そうそう、ぼくがまだ一高生で、れいの吉原に飲みに通っていたころ、自分も連れて行けと言って、ぼくに女のいる店の前を歩かせるんですよ。ぼくが窓口の女からさかんに引っ張られると、喜んで「お前、もてるね」なんて笑ったりしてましたからね。いや、母は自分はあまり飲むほうじゃないんですが、それでもちょっと飲むと、ご飯がおいしく食べられるといって、すこしは自分も飲み、ひとにも勧めていました。まァ、酒は百薬の長って口ですかな。
 戦争が近づいて来ると、働かざるをえなくなり東京に戻りました。食糧もだんだん不足して来ましたが、それでも酒やタバコはわずかながらも配給があったんですよ。あの配給で酒もタバコも飲まなかった連中も飲むようになったんじゃないかな。飲まにゃ損だというわけでね。それに、酒は米のエキスですから、栄養のつもりでも飲むようになったんでしょう。ところが、その酒もなくなり、ぼくは勤めていた工場の関係で入手できたのを幸い、航空燃料を水割りにして飲んでいました。あれは純度の高いアルコールですからね。すこしアルコール臭いが、苦味チンキかなにか入れると、ウィスキーまがいのものができる。そのうち、アメリカ軍の空襲が始まり、工場も機銃掃射されるようになりました。バリバリと来るとみんな驚いて廊下に伏せたりしましたが、ぼくは泰然として椅子に掛けていたんです。だから頼もしいと思われたんでしょうね。泣き声を上げた女の子たちにかじりつかれ、あの機銃掃射にもビクともしないなんて褒められましたが、ほんとうはそ知らぬ顔で執務中にやっていた、手づくりウィスキーに足をとられて、立とうにも立てなかったんですよ。あの手づくりウィスキーは喘息にききますな。ぼくは元来、喘息持ちだったんですが、手づくりウィスキーをやるようになってから、けろっと治ってしまいましたよ。中島敦も喘息で死んだそうですが、あの手づくりウィスキーを飲めば治ったんじゃありませんか。あの文壇の秀才が、残念なことをしましたね。
 戦後はいよいよ食糧がなくなりました。幸い、ぼくの女房は山形県の庄内で、その関係からよく米の買いだしに出かけるようになりました。あの広大な穀倉地帯は月山が横たわり、鳥海山が聳えている。なんともいえぬ風光明媚なところで、出かけるうちにだんだん好きになり、ぼくらは庄内平野の町々を転々として暮らすようになりました。戦争中工場で働いていましたから、まァそのぐらいな貯えはあったのです。穀倉地帯だから米はある、米あるところ酒なきところなしとお思いでしょうがね。東京と同様闇酒が相当出まわっていて、鶴岡市あたりの屋台にはいると、「酒は『海』ですか、『山』ですか」と訊くんですよ。まるで忠臣蔵の合い言葉みたいでしょう。『海』というのは海に近い大山町あたりで造られた「富士」とか「大山」とか正当な酒のこと。『山』とは月山あたりでつくられた闇酒のことです。闇酒といっても当時東京の飲み屋あたりに出まわっていたような手づくりまがいのウィスキーではありません。密造酒のドブロクなんです。そのドブロクも白く濁った酒ではなく、上澄みをサイフォンで吸い上げたものでね。いまは月山でそんなことをするひともいなくなってしまいましたが、あれば飲んでみたいものですね。それはそれなりに、なかなかうまいものでしたよ。
独り飲む酒のうまさ
 庄内平野の町々を転々として、やがて酒田市に移りました。通りに面した二階の座敷で、映画館の屋根からマイクに乗った流行歌が流れて来る。通りは雪です。女房もまだ元気だったので、焼酎を買って来させて毎夜のように二人で飲んだものです。焼酎もなかなかいいもんですな。ええ、女房も酒は好きなほうで、飲めば明るくいい酒だったんですよ。
 ところが、弟と東京にいた母の血圧が高くなったというので、こうしてもいられぬと思い友人に頼んで電源開発に勤めるため、三重県の尾鷲市に行くことになりました。しかし、母は死んで、あんなにも理解のあった母に報いることはできませんでしたが、そのかわり一所懸命働こうと思ったんです。ところが、ぼくの仕事は客の応接で、毎夜のように料亭に上がって芸妓たちの「尾鷲節」など聞きながら飲み食いするのです。よくうらやまれましたが、相手変われど主変わらずで、楽なもんじゃない。刺身も喉まで詰まって、おじぎをしても出そうだなんて笑ったものですよ。酒はむろん尾鷲市にもあったんでしょうが、わざわざ取り寄せた灘のものばかりでね。そうだ、ぼくの鼻いまでも赤いでしょうか。むかしはまっ赤だったんです。しかし、坂本さんというひとがいて、そのひとは鼻どころか、顔中がホオズキみたいにまっ赤になっているんです。しかし、ぼくは酒のほうでは修練をつんでいましたからね。いくら飲んでも倒れるということはなかったんです。用地交渉のときなど差される酒を片っぱしから受けていると、用地係が来てこっそりこんなことを言うんですよ。「たまには酔いつぶれてやって下さいよ。みんなが森さんを酔いつぶそうとしてるのに、かえってパタパタ倒れてるじゃありませんか。これじゃァ、用地交渉になりませんよ」ってね。
 そうそう、そんなあるとき土木課長から電話がかかって来てね。「業者からジョニーウォーカーのブラックをもらったから飲みに来ないかね。尾鷲ではいつも厄介になっているから、ご馳走させてもらうよ」と言うんです。こういう運中はみな池原という山の中の建設所にいたんです。ジョニーウォーカーもブラックとなるとまだまだ容易に手にはいらぬころでしたしね。山また山の中をジープで半日も飛ばして行ってみると、ジョニーウォーカーの中味は空になっているんです。土木課長はその空瓶を撫でてみせ、「この肩のあたりの姿はなんともいえんね。まるで美人のようじゃないか。これを見ているうち、ついたまらなくなって飲んじゃったよ。第一、きみが来るのが遅かったんだ」と大声で笑うんですよ。こちらは電話をもらうとすぐ馳けつけたので、遅いもなにもないじゃありませんか。とにかく、こうしてあの壮大な坂本ダムも池原ダムもできたんです。あんな大事業をしていても、みななんだか人生孤独なんですね。
二日酔いの治療法
 かつてはダンディズムで酒を飲んだもので、何本飲めたかを自慢にしたものです。だから酒一本にかかっていて、料理屋などに行っても飲むばかりで料理もろくに箸をつけないのです。それで、それではからだにもよくないし、折角の料理も泣くといって親切な女中さんから、あれも食べなさい、これも食べなさいとよく言われたものです。そのせいですかね。食べ物にあまり好き嫌いをしなくなりました。だいたい、ぼくは食べ物に好き嫌いの多かったほうで、食べ物に好き嫌いするようでは、栄養のバランスがとれなくなるばかりか、人まで好き嫌いするようになると言って、母からよく叱られたものですがね。いまではだんだんそれも治って料理で酒を飲み、酒で料理を楽しむようになりました。それも牛飲馬食といったたぐいではむろんない。遺憾ながらもうそんな時代は遠い話になってしまいましたからね。むろん、ぼくにもそんな時代があり、ずいぶん二日酔いに苦しめられたことがあります。二日酔いも酒道をきわめる修練のひとつですからね。二日酔いの一番いい治療は、いろいろやってみましたが、やっぱり迎え酒でしょうね。迎え酒って決してうまいものじゃありません。まずいもんです。しかし、薬なんですから冷やで一合か二合、ひと思いにキューツとやるんです。酒の匂いが鼻について、ムカッとして飲む気になれないものですが、そこを我慢して眼をつむってぐうっと飲み干すんです。そしたら、ひとりでウトウトとして眠くなってきて、眼をさましたときには、二日酔いが完全に治ってしまって、ウソのようにスッキリしてしまいますよ。
 いや、とんだ話になってしまいましたが、いまでは二日酔いも楽しい人生の思い出のひとつですからね。医者からとめられてでもいれば別ですが、としはとってもほどほどには飲むほうがいいんじゃないでしょうか。二子山親方の話だと相撲とりはぜひとも日本酒を飲まにゃいかんそうです。日本酒でなければ力士らしい艶が肌に出ないというんです。そういえば、相撲とりでなくてもほどほどに飲むひとのほうが肌がつやつやして、なんだか若々しくみえるような気がしますね。ぼくはこのごろ夜の九時ごろから飲みはじめ、その時間以外は飲まぬことにしています。そのかわり九時になると待ちきれぬようにして飲みます。酒はあえて日本酒ばかりでなく、ウィスキーも飲めばワインも飲み、ビールも飲むのです。しかし、日本酒はやっぱりよく飲みますね。それもこのごろはワイングラスにほどほどに入れて、ワインを楽しむときのように、両手で持って掌であたためながら、娘と談話を交わしながら飲むのです。娘も飲むというほどではないが、ほどほどにつきあう。こうして床につき眠る夢もまた楽しい東大寺の塔頭勧進所で飲んだ酒を夢見ることもあります。二月堂の茶屋で飲んだ酒を夢見ることもあります。戦中戦後の酒や東京や大阪の街や尾鷲の料亭で飲みまわった酒を夢見ることもあります。月山の山ふところ七五三掛の注連寺では、祈祷簿の和紙で蚊帳をつくって厳しい吹雪に耐えました。その寂蓼をなぐさめてくれたのも酒でした。すなわち、酒はぼくにとって人生そのものだったといっていいでしょう。
(神楽坂・三善にて)
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