093 この人と30分 畸人とは変人にあらず天に近き人なり
出典:革新 昭和54年3月1日
もり あつし
1912年、長崎県生まれ。旧制第一高在学中、菊池寛に認められ、横光利一に師事。19歳で『毎日新聞』に「酩酊船」を連載。太宰治、檀一雄らと「青い花」を創刊した。後各地を放浪。74年、「月山」にて芥川賞受賞。ほか著書に「鳥海山」「星霜移り人は去る」
 飯田橋にある森敦さんのお宅に伺った。一月の半ば、「酒を飲み過ぎ」倒れて入院。退院後間もなくの、二月初頭のことである。
 「病院ではね、そりゃア、いい患者さんでしたよ。ぼくの部屋は夜の十二時ごろまで(見舞いに来た人で)いっぱいでしたよ」
 「飲みすぎたのがいけなかった」と反省することしきり、かと思うと、
 「身体に悪いと思うと酒も煙草もおいしくなりますよ」なのである。
 変わっていらっしゃる? と伺えば、
 「月山では、あれだけの雪に閉じこめられて、一人で何もせず、じーっとしているのは大変なことだと、今でも語り草になっているようですよ。徳川時代の本に『畸人伝』というのがある。その中に“畸人とは変人にあらず、天に近き人なり”とありますがね、ぼくなんかも、まあそのほうですかね」
 見事に言ってのけて、たまらなく人を好きにさせてしまうのだから、ひとかどの御仁ではない。
 
□十年働いて十年遊ぶ□
 「はじめは決意でしたよ。十年働いたら一生遊ぶんだと。そのかわりものすごく働いたんです。だからお金もたくさんためましたし、これで一生遊べるだろう、と思っているうちにインフレーションになっちゃって、だんだんお金がなくなって、働かなくちゃならなくなった。それでまた働いた。そうしているうちに癖になったね。決意もしまいには癖になりますよ」
 「十年経ったか、と思うと、ほんとにもう働きたくなくなったね」
 流木や松笠を拾って飯を炊き、野や山を跳めて日を送る。そうするうちにも、いろいろなことをした。北は樺太から、南は南極の近くまでも行ってみた。太平洋をゲタばきで歩いたり……。
 「歩くというのは漁船に乗っていたんです。夏の間はカツオ漁船に、冬はマグロ漁船に乗っていました。何もしないんですよ。もちろん給料はもらっていません」
 なぜ樺太に行ったのか、なぜ漁船に乗ったのか、つまり「なんとなくね」が答えのすべてである。そこのところをもう少しと思っても、納得のいく答えを得ることは、恐らくできない、
 「ぼくの思想は無限受容なんですから。何でも受け容れるんです。悪く言えばミソもクソもない。何でも受け容れてやろうと。何でも知ってみたいと」
 
□月山のこと□
 「月山へ行ったのも目的があったのではないんですよ。夏の間は涼しく気持がいいんじゃないですかと、人に勧められて上がって行った。行ってみて、はじめて、その村が闇酒部落であるとか、密造酒の部落であるとか、わかってきたんです」
 夏の間のつもりが一冬を過ごした。月山の山懐深く、当時は破れ寺であった注連寺に、じいさまと二人の冬だった。
 「おじいさんはぼくを帰したくないから、もう少し居れもう少し居れ、雪はまだこない、なんて言っておったんです」
 ところが、いきなりの雪に閉じこめられて、仕方がなくも悠々と過ごした“一年”
 「あれは天の与えてくれた賜物だったんでしょうねぇ。『月山』はあった通りを書いたんです。村の人もあった通りだと言っています」と言うが、では、なぜ『月山』は幽幻な世界なのだろう。
 「“山に入って山を見ず”という言葉がある。山に入ったら山は見えないはずなんだ。ところが、月山は、アスピーテ火山といって牛の背中のような形をしていますが、山深く入っても同じ形に見えているわけです。ああ、あの華厳経に書いてあるそんな世界だなと、思いましたね」
 一つの悟りを開いた瞬間。当然、『月山』は華厳経の世界で書いている。ゆえに幽幻かつ難解……。
 「華厳経は非常に美しいお経です」と実にやさしく丹念な説明である。
 「蓮の葉に朝露がころがっている。朝露だから、玲瓏玉の如きものであるから、四方八方を表に映し出している。全世界を映し出しているということは、即ちその中に全世界があるからだと。そこに全世界があるならば、池もあり、池があるなら蓮もあり、蓬の葉には朝露がころがっているだろう。それもまた玲瓏玉の如きものであるから、全世界を映し出しているはずだ。全世界を映し出しているなら、またその中にも全世界が……」とずーっと続く。
 それを時間的に解釈するならは、全世界は、現在、過去、未来であるという。
 「現在を掘りおこしてみてゆくと、現在の中に過去も未来もあるんじゃないですか。現在の中に未来はないと言いますけれども、可能性の芽生えがあるわけです。その可能性が未来なんだ。だから自分の未来を占おうと思ったら、自分の現在をものすごく考えてみるしかない。あなたは現在をしっかり生きるしか、あなたを発展できないんですから」
 華厳経を空間的にも時間的にも解釈して説いて、“世界”の大きさについて語れば数学の“近傍論”を持ってくる。
 「近傍について広中平祐さんと話したんだ」と言うからには、生半可な知識をもって語っていない。
 境界線は外側についている。だから内側からみれば境界線がない。であれば世界は無限大であるから、世界に大小はない……。
 「アハハ、ますますわからなくなったのではないかな」。
 「小説に思想があるなんて思わんだろう?」と問い、「書く時は高次元、飲む時は低次元ですよ。書く時は飲みませんよ」というあたり、厳しい姿勢がうかがえる。
 
□対物レンズから覗いてみれば□
 「ぼくには、もうだんだん過去しかないように見えてくるんですから望遠鏡を逆さまに見ているわけです」
 人生、生きてゆくうちに、過去を振り返らざるを得なくなる時がくる。
 「望遠鏡を逆さまに覗くと、中にあるゴミの位置が一遍でわかるんですよ。それと同じで、望遠鏡を逆さまにして覗くように自分の人生を眺めることができるようになってくる。すると、二十歳代にはあんなことをした、あの時にはあんなことをした、と見えてくるんだ。あの時はこうなっていたのかとわかるんですよ。人生に理屈がつけられるようになる。そうすると死生観も生まれてきますね」
 死生観なんてものは、小説を書こうと思ってから考えてきたんですと、ここでも、また、『月山』である。
 『月山』で芥川賞を受賞したのは「六十一歳だったか二歳だったか」
 一高(旧制)に入学したが、「世間もまた大学である」と思って辞めた。その頃、「菊池(寛)さんにも横光(利一)さんにも(書くように)言われてましたし、毎日新聞から話があったりもして」書いたのが『酩酊船』、以来、四十年余も筆を絶っていた。いかにももったいない。
 “書きたがらない”作家のようで、
 「書くのが好きなら、遊んどる間に書いてるはずですよ。当時、日記でもつけていれば、今、楽なんでしょうけどねぇ」
 では、今はどうなのか。
 「今はラジオに引っ張られたり、テレビに引っ張られたり、講演に引っ張られたりでね、ほとんど暇がないんです」と言う。
 「表現には、ちょろちょろ燃やすやり方と、一挙に爆発してやろうというやり方とある。だけど表現力という点ではまったくおんなじだと思ってるんです。ぼくはどちらかというと爆発型じゃないですか。だけど、それも(病気になって)危険信号が出たことですし。娘は『書斎にこもれという神様の命令だ』と言っています。ぼくもそうかなと思いますから、静かに書斎にこもろうかと思っているんです」
 しかし、それも実行には至っていないのか、インタビューの半ば、電話口に出られた森敦さんは、盛んに講演の打ち合わせをしているようだった。               (土方史子)
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