104 月山の想い出
文/大山美佐子
出典:柿の葉 Vol.39 昭和57年1月20日
 昨年の八月、森さんの文学碑が月山のふもとに建った。月山とは、言うまでもなく名作「月山」の舞台となった山である。
 碑面にはつぎのような作者のことばが刻まれている。
    すべての吹きの
    寄するところ
    これ月山なり
 除幕式には当の森さんをはじめ、作家やマスコミ関係者、それに地元の人びとがおおぜい集まり除幕を祝った。「月山」という作品、その舞台となった村に住む人たちにはどう思われているのだろうか──。森さんは言う。
「閉鎖的なところもあるけれど、心のあたたかい人たちです。碑を建てるのは普通なら大変なことなのに、皆さんが動いてくださって、あっというまにできあがりました。意外でもありましたね」。
 確かに「月山」は作品、つまり、作られたもの。でも、地元の人たちは、この作品によって、自分たちの知らない部分を初めて知ったというようなことがあるようなのだ。ある村役場の人は、よそから来る人にこう話しているという。「月山のことは、すべて『月山』に書かれていますよ」。
 「月山」から、実際の月山についての知識を得ているという、いうならば“逆流現象”が起こったのである。妖気ただよう作品の魅力が、このような不思議を生み出したのかもしれない。森さんはつづける。「あまり部屋から動かなかったのに、なぜこんなによく村のことを知っているのか、と、皆びっくりしているんです。それはね、冬になると村の青年たちが集まってきたことにあるんです。そういう時に、彼らは、月山のことについての、いろいろなことを私に話して聞かせてくれましてね。私が月山にこもっていたのは、もうずっと前のことになってしまいましてね、その頃の青年たちというのは、今ではもう五十歳を過ぎているんじゃないでしようか…」。
 当時は、森さんの暮らしぶりを、村の人たちが何人かかたまって家の外からのぞいていたそうだ。「もしそれを、自分の方からシャットアウトしていたら、あたたかいものは生まれなかったでしょうね。あたたかいから、生きておれたんです。」そう森さんは振返る。
 普通ならば、自分たちの住む土地を舞台にしたとなると、地元の人たちに歓迎されることは少ないところが、それが自然なこととして受けいれられたという事実には、そういった背景があったのだ。
 現在、村の人口はひと頃に較べて半分ぐらいに減ったという。新しく立派な道路ができて、観光でたくさんの人が来るかわりに、村の若い人たちは、都会へと出て行く。「あの道では感慨が薄いね」。森さんは淋しそうに付けくわえた。
 「人間は、運命です。私もいろいろな偶然がうまいぐあいに重なって、『月山』を書くことができました。まるで天の助けのようなその多数の偶然によって、気がついてみたら作品を書きあげていた、そういうところがあるんです」。神気も名作を支えたようだ。
 若くして、横光利一に師事。横光さんという“神様”のそばにいると、自分が小説を書く必要など、あまり切実には感じられなかった、と言う。そのためか、事実、森さんは長い間腰をあけずにいた。──時は移って昭和四十八年、「季刊芸術」に筆を執る。さまざまな土地をさまよい続けた果てに、森さんは月山に辿り着いたのだ。めぐり合わせと、運命とが「吹き寄せる」かたちで、小説「月山」は生まれたのである。
 「今はもう、昔のように放浪することはないですよ。そのような旅はなくなりました」。
 そう語る森さんの瞳に、いまだ月山は、あざやかな彩をとどめている。
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