108 会社に人生の価値を見出そう
「会社は会社、おれはおれ」という生活だけは送ってもらいたくない
出典:実業の日本 臨時増刊号 昭和57年4月10日
 
世に二つの大学あり
 若いときというものは、よく一人でいろいろと考えるものだが、ぼくもその一人であった。
 旧制第一高等学校に入学したぼくは、試験勉強から解放されたとたんに、さまざまなことを考えはじめ、自分なりにある一つの結論を引き出した。
 結局、学校というのは、自ら学ぶべきところであって、先生が生徒に教えたり、生徒は先生から学ぶようなところではない。自分で学びたいものがあれば、どこかで話を聞いてもいいし、図書館に入って本を調べてもいい。なにも学校に行く必要はない。自分の好きなやり方でやったらいいのではないか、と思うようになった。
 当時、ぼくの考え方によれば、世の中には大学が二つあった。一つは、「○○大学」という本当の大学であり、もう一つは、この世の中にある、目に見えない大学である。
 大学へ行って、数学を勉強する人もあれば、原子力を勉強する人もあり、英文学を学ぶ人もある。しかし、それらはたんに知識を得ただけでは大学に行ったことにはならない。そうした学問を通じて、何か哲学を得ないことには、学んだということにはならないのである。
 ところが、町の一ぱい飲み屋のおやじで、ふしぎに人間的迫力のある人がいる。そこには美人のおかみさんがいるわけではないのに、いつも飲みにいく。そこでお説教を受けると、いたく感動して「かなわないな」という感じで金をはらって帰っていく。こういうおやじは、いわゆる大学を出ていない。出ていなくても、ある一つの哲学をもち、小さいなりに自分の世界を形成している。こういう人は、目に見えないもう一つの大学を出た人なのである。
 だから、本当の大学へ行き、そこである一つの哲学をつかんで卒業し、そして会社に入ってからまた何かをつかむとすれば、二つの大学を出たことになる。これはりっぱなことである。
 学校を出てみごとに入社試験に受かった人は、この可能性に恵まれた人である。まず、このことを述べておきたい。
就職は二回もある
 ところで、ぼく自身のことに話を戻そう。二つの大学があることに気がついたぼくは、学校をやめることになんら不安を感じなかった。ぼくは、旧制一高に入学はしたが、卒業はしていない。だから、世間でいう「○○卒」という言い方をするなら、中学卒業である。ということは、大学卒業としての職業を選ぶ権利を、自ら放棄したわけである。つまり、自分で選びさえしなければ、仕事は必ずあると思っていた。だから、学校を去るにあたって食っていく上での不安はなかった。
 もしぼくが一高から東大を出て学士号でもとっていれば、「用務員でもいいから働かせてくれ」と頼んでも、向こうが「まさか」といって働かせてくれないだろう。その点、中学卒業のぼくは、いくらでも働く機会はあるはずである。
 もう一つ、幸いなことに、まともにいいところに口があった場合、同級生あるいは下級生が同じ会社に勤めていて、彼らが出世しても、自分はそういう権利を放棄したのだから、決して焼きもちは焼くまいと心に誓えたことである。そういう意味で、世の中にたいして勇敢に立ち向かう心構えはできていた。
 学校をやめた私は、菊池寛の世話になっていた。当時、横光利一にも世話になり、両方からお金をもらっていた上、そのことを母に隠していたので、母からも送金はあった。
 一〇年ほどそのような生活を続けていたが、お金も底をつくし、社会情勢も戦争の気配が濃厚になってきたので、いよいよ働かねばならなくなった。ぼくは、ある光学会社に入社した。
 実はそこで、ぼくはある発見をした。当時は、入社をしてもすぐ仕事はなかった。先輩たちが自分で仕事をかかえ込んで、新入社のぼくにはひとつも与えてくれなかった。自分でどうしても、仕事をしようと思ったら、何か自分の得意とする仕事を自分で見つけて、それをさせてもらうよりほかはなかった。つまり、就職して会社に入っただけでは職に就いたことにはならない。社内で自分で仕事を探してはじめて職に就いたことになるのだった。ぼくは、なるほど就職というのは二回あるものだなと思った。
 幸いにして、ぼくはあるとき一つの仕事に就いた。そのとき、つくづくああこれでおれももう一つの大学の第二の就職ができたのだなと思った。こうなった以上、これは絶好のチャンスだから、この仕事を通じてひとつ大いに勉強をしようと考え、先輩に「光学のことを勉強するにはどんな本を読んだらいいか」と聞いた。先輩はそのとき、「スーザールの『オプティック』を読んでいればまず困ることはない」と教えてくれた。ぼくは、日夜、その本と首っぴきで勉強した。分からないところがあると、翌日、会社に出てから、先輩に教えを乞うた。先輩は、実物をもってきて教えてくれた。
 こんなにありがたい学問はなかった。月給をもらえた上で、実物教育をしてくれるのである。しかも、読んだことがそのまま翌日に役に立った。これもまた楽しいことだった。二度目の就職を果たしたぼくは、毎日、毎日感謝の気持ちをもちながら働いていた。
 いまは状況がまったく変わっている。会社によっては、入社式の前に研修を行ない、四月一日に入社すると仕事が待っているというところもあるようだ。これは、会社が入社したらすぐ役に立つ人間になってくれといっているのと同じなのである。こんなに恵まれたことはないだろう。このありがたみは、昔のように仕事をあさって職場を走り回った体験がないとなかなか分からないものだが、とにかく新入社員諸君はこの恵まれた環境をフルに享受していただきたいと思う。
「辞める」より「卒業」を
 ぼくはサラリーマン時代、仕事がじつに楽しかった。学歴がないにもかかわらず、好きな道を選べたのだから、全力をつくした。だからいつクビになってもいいと思っていたし、悔いもなかった。
 その光学会社で望遠鏡の鏡体をつくらされたことがある。望遠鏡のボディである。いまは生産技術の進歩で楽に正確につくられているが、ぼくのころはその精度を出すのに、きわめて骨を折った。鏡体の表から裏から旋盤をかけて心(しん)を出すにいたるまでが、大変な作業だった。そこで、ぼくはもう少しこれらの生産面を管理する方法があるはずだと思って、先輩に聞くと、テーラーという人の本があるという。これがあの有名なテーラー・システムなのだが、ぼくはここで自分の仕事としてテーラーをむさぼり読んで、職場にその考え方をできるかぎりとり入れた。これは大変な勉強だった。
 いま、生産現場にはロボットが設置されている。これはじっくり勉強してみる価値があるものだ。これらは人間の眼や手や足の役割をしているが、なぜこんなに器用にできているのか──現場に入った人はぜひ一度研究してみる価値がある。そこから自分自身の仕事を見直してみると、いろいろな発見をするものである。
 ぼくは学歴がなかったから、同じ年齢の人にくらべて月給も少なかった。ときには若い人たちよりも低かった。しかし、これだけ勉強させてもらっているのだから、本来、こっちが月謝を払うべきだ、それを月給までもらって──と本気で会社に感謝していた。
 ぼくは、ほぼ一〇年たってその会社を辞めることにした。そのとき、会社の人は辞めることに大変反対してくれた。みんなは、ぼくが会社がいやになって辞めるのかと思っていたようだったが、ぼく自身はそうではなかった。
 けっして、自堕落な気持ちで辞めるわけではなかった。あえていえば、ぼく自身の人生観から出たものだった。人生、はじめがあれば終わりがあるものだ。一〇年たてば、一つの区切りである。これまでぼくは一生懸命勉強し、働いてきた。だから「辞める」というよりも「もう一つの大学」の一〇年コースを「卒業したい」という気持ちだった。みんなは、ぼくの気持ちを分かって、別れを惜しんでくれた。.
 それから終戦になった。戦後は、いまの若い人には想像もつかないほどの食糧難におそわれた。それだけ苦しい中にあって、この光学会社の社長と奥さんは、ぼくに米を送ってくれていた。
会社と人生とは別物ではない
 ぼくはその会社をたまたま一○年で卒業したが、なかには定年までおられる人もあるだろう。つまり、定年までかけて卒業するわけである。こういう人たちは、自分の人生に絶望して、いやいやながら仕事をやってきた人ではない。だから、会社を辞めるときは、「おれは一仕事なし終えて卒業したんだ」という気持ちになるはずだ。けっして上司にべんべんとお世辞を使ってきたわけでもない。会社に就職し、会社の中でほんとうの就職をなしえたのだから、もしなんらかのことでほんとうの仕事をもう一度やるようになったら、堂々とわたりあえるものをもつということなのでる。
 そのように力をつけて卒業した場合、卒業後、たまたま会社の人たちと会ったとき、必ず、一杯飲もうということになる。社長からいわれることがあるかもしれないし、後輩からいわれることがあるかもしれない。そのとき、あなたにとって前の会社の生活そのものが一つの人生になっているのだ。だから、人生を卒業しないかぎりは、あるいは卒業させられないかぎりは、この会社と人生との関係はやまない。これであなたは悔いのない人生を送ることができるはずなのである。
 つまり、ぼくのいいたいことは、会社を辞めたとき悔いのないような勤め方をする、ということである。そして、辞めても会社の人とつき合うような人生を会社の中につくることである。会社を辞めた、ということではなく、卒業したということなのである。「卒業した」あとには「同窓会」というものがある。が、「辞めた」となると、あとは何も残らない。会社を卒業するという気持ちを、まず会社に入ったときからもつべきである。
 そのためには、当今はやりの「会社は会社、人生は人生」という考え方に堕してはならない。会社は月給をもらう場所だから、そこに勤めながら、おれは別の人生を歩むのだなどと思ってもらいたくないのだ。
 余談になるが、先日、あるサラリーマンの友人と飲んでいた。話がたまたま会社の中における出世法におよんだ。彼は、「絶対に出世できる法がある」という。要約すると、第一に、いつもバリッとした背広を着ていること。第二に同僚と飲んだときは全額自分が支払うこと、それによって力関係がしだいに有利になってくるからだという。ただし、いつも一緒に飲んでいたら金がもたない。そのため、日ごろは飲まず、月に一回か二月に一回しかつき合わないのだそうだ。つまり、投資効率を考えるわけである。
 第三は、自分自身、出世意欲をもつことである。意欲なきところ行動が出てこない。そこで自分でまずおれは必ず出世するという気持ちをもつ。そうすればいろいろな行動がそれに結びついてくるというのである。
 この三つの方法については異論はあろうと思うが、ぼくは三つとも賛成である。とくに出世しようと思う人はその意欲をもたなければならない。ただし、それはあまり露骨になると、かえってマイナスになるから注意した方がいい。
 要は、サラリーマンである以上、自分自身の生活をまず会社の中に求め、そこから人生としての一歩一歩を着実にふみしめていくことである。
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