111 放浪の芥川賞作家 森敦氏
出典:ぱぴい 6月号 昭和57年6月
【森敦氏プロフィール】
 明治四十五年、熊本県に生まれる。旧制一高(現在の東大教養学部)を中退。学生時代、菊池寛の知遇を得、毎日新聞に、『酩酊船』を発表。永井荷風に激賞され一躍脚光をあびるも、忽然と文壇から姿を消す。太宰治、横光利一、檀一雄等との交遊を続けながら、十年働き十年遊ぶといった生活を送る。昭和四十八年、突如『月山』を発表、文壇の注目を集め芥川賞を受賞。以後小説はもとより、講演、対談、テレビ出演と幅広い活躍を続けている。
 
 小説『月山』で名高い森先生、現在は文壇の大御所ともいえる存在で、同時にマスコミの人気者。気さくで温かい人柄が、格調高い文学とともに多くの人の共感を得ています。自宅でのインタビューの間も、御自分で紅茶を入れてくださる気の使いよう。ひたすら恐縮しながら、貴重なお話に耳を傾けました。
 
 
人は放浪のひとというが、それは問違い本当は仕事が大好きなんです
評論家・平岡篤頼氏曰く
“途方もなくスケールの大きい人”
 
 ──先生は、十年働き十年遊ぶといった人生を歩んでこられたと聞いています。放浪癖は世間でも定評があるようですが(笑)
 「僕はね、本当は仕事が大好きなんです。職に就いている間はわき目もふらずに働いた。ところがね、女房が仕事をする僕を好まないの(笑)。十年たつと、どこか風景のきれいな土地へ行って遊んで暮そうって言い出すわけ。すると僕もホイホイついてっちゃう(笑)」
 ──奥様の影響が大だったのですね。先生は太宰治や横光利一等と親交があったそうですが、そうした方々の影響も強いのでしょうか。
 「そう思いますね。不思議なもので、人間が何かをやるとき、縁というものが大きく左右する。僕の場合、菊池寛と出合い可愛がられた。菊池寛の紹介で横光利一を知り、新聞に『酩酊船』を推挙していただいた。それを読んで感激した檀一雄が親交を求めてき、彼を通じて太宰治等と付き合いを持つようになったわけです。
 学校を中途でやめた男が職につけたのも、そうした友人等のおかげ。遊んでいた時期も、やっぱり友人が次から次へと住む土地を提供してくれた。今では日本中知らないところはないですね。これ、みんな人のおかげです」
 ──根っから人に愛される人なのですね。先生御自身も相手を大切にされるからではないのでしょうか。
 「僕は人間が好きなんです。たまに遠くから訪ねてくる人があってもいいところばかり見えちゃう。人に助けられ、自分も助けた。それと不思議なことに、僕と付き合った人間はみんな偉くなってるね。太宰しかり、檀しかり」
 ──先生御自身が一番偉くなってしまわれたのでは?
 「ハッハッハ、とんでもない」
 
自分が“いる”ということは“いれる”ということ。過去を大切に
 ──御自身の歩んでこられた人生に満足しておられますか。
 「人間というのはね、本来幸福なものなんです。まず前方には希望があると考えなくちゃいけない。そして過去があるから今の自分がいる。“いる”ということは“いれる”ということなんです。過去の失敗や成巧のひとつひとつが今の自分をつくりあげている。それがちょっとでも狂っていたら、今の自分は“いない”ということになるわけ。そう考えれば、ふしあわせであるはずはないんです。僕自身、遊んでいた時代もずっとその姿勢で生きていましたから、悲観することなんてなかった。前を見れば希望があると考え、前途だって恐れなかった」
 ──今だって同じ姿勢なわけですね。
 「もちろん。希望と、ただひとつしかない過去を幸福と思うことによって、人は成長していくものですよ」
 ──先生の本業である小説に対する考え方は?
 「小説だの詩だの、現実から遠い何か花のようなものと見るのは間違いです。文学は自分の日常そのものの中から生まれてくる。例えばアコムのようなお金を貸す仕事の中に文学がないかといったら、そんなことはない。とにかく仕事に励むこと。その中から文学は生まれてくる。自分の携っているものをどう捉えるかの問題ですね」
 ──お金を貸す仕事については、どうお考えになりますか。
 「お金の貸し借りは、世の中ではどうしたって必要なことです。それを罪悪視するなんてとんでもないことです。ただ、身の程知らずの貸し借りはいけませんね」
 ──大変勉強になりました。これからもお体を大切に、どんどんよい作品を書いていって下さい。
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