125 長崎を語る
    ──長崎と旅とさだまさし
 森 教
聞き手・内田みさほ
出典:さだまさし 詩のふるさと 昭和58年6月15日
長崎へのノスタルジア
──先生のふるさとは長崎だとおうかがいしておりますが。
 森 僕は長崎の銀屋町という所で生まれたんです。その町はもうなくて、銀屋町教会という教会の名前にだけ残ってはいるんです。長崎という街は原爆でやられたけど、坂や山が多い所ですから、全面的にやられたんじゃなくて、銀屋町教会はオンボロのまま残っているんです。で、その教会のある道筋が、銀屋町だったんだろうと思うんです。それでね、かえって郷愁をそそるんですね。
 長崎というところは、精霊流しが有名なんですね。さださんも精霊流しを歌っているわけですね。僕は『精霊流し』をラジオで聞いたんだけども、グレープが、長崎のコンサートを最後に解散するといって、女の子たちが泣いたり騒いだりしていた時でしたね。
 僕もね、ふるさとが長崎であり、なおかつ自分の生まれた町が失なわれたということで、長崎にはある種のノスタルジアを持っているわけです。ところがそのノスタルジアが、さだまさしの歌に合うわけですね。何か常に、彼にノスタルジアを持っているんですよ。まあ、そうでないものもありますけれども、望郷の思いというものは、どこか彼の歌から離れられないわけですね。
 僕は自分で『光陰』という小説を書いたんですね。それは唐時代に杜甫と並び称せられている李太白という有名な詩人がいるんです。その人が、「春夜桃李宴(しゅんやとうりのえん)の序」というのを書きまして、「夫天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」という書き出しなんです。それを芭蕉も書き出していますが、それは李太白の真似をしたわけです。僕はどういうわけで「光陰」という題名をつけたかというと、本当は「過ぎゆく旅人」という意味で「過客」という題にしようと思ったんですが、それでは野暮だというので、「光陰」という題をつけて、「光陰は百代の過客なり」ということを知ってくれている人は、「あ、これは本当に過ぎゆく旅人だ」と言ってくれるだろうと思って、こういう題をつけたんです。
 ところで僕は、熊本生まれということになっているんですよ、戸籍は。僕の両親が天草の人間ですから熊本県、富岡の戸籍に入れたんですね。
 長崎からちょっと岬のほうへ出ていきますと、茂木というところがあるんです。びわで有名なその茂木から、天草の富岡へ連絡船が出るんです。その間に千々石(ちぢわ)灘という灘があります。茂木の景色が非常にいいと、故宮崎康平さんが言ってるんです。で、目の見えない宮崎さんが、どんなにいい景色か案内すると森繁(もりしげ)さんに言って、連れていったという所なんですが(笑)。ところがその灘っていうのが、潮の満ち干の関係で何とも言えず荒れるんですね。有明海の玄海灘といわれるくらいのところですから。
 僕は、いつごろまで長崎にいて、どんな暮らしをして銀屋町にいたんだろうかということに非常に興味を持ちまして……。僕の母親は赤十字の従軍看護婦をしておりました。「博愛丸」という船に乗り、何回も日本と大陸を往復してたんですね。その頃は大連と広島の呉の間ですが。そのため、バルチック艦隊とも遭遇したというそういう女なんです。
 そういう女が、なぜかは知らないが、従軍看護婦でためたお金を持って、実践女学校に入ったんです。さらに、実践だけじゃだめだっていうんで、その頃女子専門学校って言ってましたが、共立に入ったわけです。そこで、造花を習ったようです。ある時にね、電話がかかってきましてね、「森さんのお母さんは造花屋をしていなかったか」と言われて、それでハッと思い出したんです。
諏訪神社の「おくんち」と豪華な精霊流し
 森 その長崎の銀屋町というところをズーッと上っていきますとね、ピエール・ロチの『お菊さん』にも出てくる、諏訪神社というのがあります。そこの一番の祭りをおくんちというんです。それは九日に行われるので「くんち」というんですが。
 おくんちのお祭りの時には傘鉾(かさほこ)っていうのを各町で出すわけですが、それが諏訪神社の高い石段をのぼっていきます。社殿の前に広場がありまして、傘鉾の格好がいいと、見物人が「モッテコーイ」と、声をかけるのですね。戻って来いというのか、持って来いというのかよくわからないけれども、石段を降りてしまってからそう声をかける。そうすると高い階段を戻って行かなくちゃならないわけですよ。何回も声をかけられるのは大変だけど、名誉なわけですね。
 僕の母親が造花屋をしていただろうということは、自分が桜の花の傘鉾を作ったと、盛んに子供の僕に話してくれていた。そのことをその電話で思い出したんです。だから電話をくれた人から詳しい話を聞けばよかったとあとで思いましたね。
 僕が行った時は銀屋町は雨が降っていた。僕は夜道を歩きながら、この辺で造花屋を開いていたんじゃないかと想像しました。そこを降りるとあの眼鏡橋です。僕のもっているイメージと合うわけです。で、僕は、長崎へ行くと想像力を刺激されまして、いったい僕は何歳までそこにいたのか調べたいんです。その電話の人は知っていたんでしょうにね。
 僕は長崎のあちこちから集まってきた人たちに、僕の長崎についての思い出を語れと言われたとき、バラバラに今のような話をしました。
 精霊流しって、あれは非常に豪華なもんで、人間も乗れそうな舟を持ち出してね、流すわけです。それが、長崎湾全体にキラキラキラキラ光って行くわけですね。この頃はテレビで紹介するときは「さだまさしの『精霊流し』で有名な精霊流し」って(笑)。まあ、一般の人は長崎の精霊流しって知らないわけだから。
 僕は、歌か何かわからないけど、「あちゃさんピー、太鼓持ってドン」と言うのは覚えてると言うと、「森さんは、朝鮮に行く前に、そんな事を知っているのなら、五つ位までいたのじゃないか」といわれたりしました。だけど、これが何なのかはわからない。長崎は中国人の多い所ですが、中国人の家庭の子供たちと一緒に遊んだ時の話し言葉ではなかったかと思ってたんですよ。
 その位の記憶だから、逆に僕は長崎の街が懐しいし、長崎の歌が懐しいわけですよ。それとね、北のほうの歌というのは、割とあるんです、北海道にしても、竜飛岬にしてもね。ところが南のほうって案外ないんです。もちろん、「おてもやん」とかの民謡はありますが。しかし、歌謡曲というか、ニューミュージックには余りない。
外へ目がいく長崎人
──先生のお母さまのお詰もそうですが、長崎県の女の人って、割に外に向かって出ていくというような所があるのでしょうか。
 森 そうですね。朝鮮に行ったり、上海に行ったりしたわけです。大体、子供の頃から海を渡って大陸に行ってたんですね。さだ君も中国で映画を撮ったけれども、まあ、いろんな考えがあるでしょうが、大陸に対するノスタルジィていうのがとてもあるんですね。さだ君のお父さんたちが大陸に住んでいたことがあるんで、さだ君も僕らと似た運命をたどっているんじゃないですか。
──さださんの関心の持ちようが、日本の文学者の持っているものにとても似ているような気がするのですが。
 森 それは言えますね。演歌とは全然違うねらい方でね、同じことをねらっているんです。だから、年を取った人にも若い人にも受けるわけですね。日本人の根本の心みたいなものを、彼は持っているわけです。日本人というのはどんな人も、南から、朝鮮半島から、大陸から流れてきたわけで、それが最も鮮明に残っているのが長崎ですね。
立原道造、梶井基次郎とさだまさし
──三好達治とか立原道造とかは、若い人たちにとても人気があるわけですが、その人たちの詩を読むのと同じような気持ちでさださんの詩が読まれているように思うのですが。
 森 そう、三好とか立原道造につながる部分っていうのは、あるかも知れないね。立原道造も、僕は歌で歌ってもらいたかったんじゃないかと。誰かが詩に曲をつけてくれたらええなあと思ってたんじゃないかなと思う。
 僕は、三好も立原も直接知っているし、本人の口からそんなことは聞いたこともないけど、そんな気がする。立原道造の抒情の中には歌声があるんでしょうね。
 白秋は、初めから歌うために作ったものが多いからね。生きていれば立原道造にさだ君を会わせたかったね。立原は大旅行ってしてませんから。軽井沢に行ってますが、その程度で、あれは堀辰雄の別荘があって、そこを訪ねただけでしたね。当時は軽井沢でも旅だったけど。
──さださんは、梶井基次郎や立原道造には強く惹かれているのに、太宰治には関心がないらしいんですが、その辺のことはどうなんでしょう。
 森 まあ、好き嫌いというのは、僕にはわかりませんがね。梶井のほうがいいですよ、文学としての質が高いですからね。売れることはどうか知りませんが。あの頃出た文学で質の高いのは、梶井基次郎と中島敦ぐらいじゃないですか。この間までいばっていた作家も、死んじゃえばもう思い出してももらえない。でも、梶井とか中島は忘れられないですよ。だから、あの純度の高さに参っているんじゃないですか。
 だいたい、歌を歌う人っていうのは、普通の人は、泣き落とし、口説きにかかっている。もちろんさださんなんかもそうだし。その、泣き落とし、口説きというのを、太宰は盛んにやったんです。自分で 「文学は口説きである」と言った位ですから。
 だから、口説きなら、怖いことも恐れることもないんじゃないですか。特に熱中することもないんじゃないですか。口説くならいつでも口説いてみせるぞ、という歌を彼は歌っているんですから。口説こうとも何ともしない純度の高い、梶井だとか、中島だとかを好きだということは、本当は芸術が好きだということですよ。今は、会社を作って考えたり人を養ったり、いろんなことを彼はやらざるを得ないでしょうが、そうであればあるほど、心はやはり芸術に傾いてゆくんでしょうね。
 もし、太宰が好きでないというなら、口説きだからですよ。
──以前、上智大学の女性の太宰研究家の方が朝日新聞に、太宰とさだまさしが似ていると書いていたんですね。
 森 それは似てますよ、両方とも口説いているんですから。
──ですから、似ているから嫌いなのかな、と思ったのですが。
 森 似ているからじやなくて、それならできるからです。純度の高いものをやっておけば、いつでも下にさがって口説くということはできるわけです。だから、あんまり下にさがりたくないというので、純度の高いものを求めるんじゃないかな。
旅することとふるさと
 森 さださんは山寺へなんかも行っているし、北への志向があるね。僕もあちこちに行ってるけど、彼も大きい旅をしようとしている。つまりね、彼も潜在的なふるさとへ、戻ろう戻ろうとしてるんです。中国大陸へは行ったんじゃなくて、帰ったんです。
──そうですね。すると旅に行って、ことによると、心は戻ってこないということもありますか。
 森 いいや、やっぱり帰ってきますよ。行ったきりというのは回帰じゃないんですから、帰らなくっちゃ。帰るために旅をするんです。何か知らないけど、これ人間の本能ですよ。だいたい南の人っていうのは、北に憧れるっていいます。だから今後、さださんにもそういうものが出てくるんじゃないかな。
 ふるさとっていうのは、二つあるんですね。偶然に自分がそこで生まれたふるさとがあり、本当の心のふるさとっていうのがあります。心のふるさとっていうのは、先祖代々流れている血の中にあるんじゃないですか。だから、自分はいったい何のために大陸へ行きたいのか、あとで理屈はつけるけど、理屈以上のものがある。だから心のふるさとっていうのを、さださんはあの辺りに持っているんじゃないですか。
 まあ、人間っていうのは、もうひとつ好奇心っていうのがありますからね。開発精神(フロンティア・スピリット)みたいなものもあるんでしょうけどね。
──さださんの詩も、昔のものと今のものとはちょっと違うような気がしますね。昔のものは、未来を訪ねる旅、好奇心の旅で、今は過去を訪ねる旅に変わっている。
 森 そうです。そうなるんですね、どうしても。
 旅と人生というものを、芭蕉なんかは「人生修行」と思って旅に出たんで、西行なんかは宗教心で自分を知ろうと思ったんですね。旅に出るほど孤独感を感じるっていうのはあるわけですからね、今の旅とは違いますから。その孤独の中で自分を見つめようということですよ。だから旅の歌っていうのは、孤独か絶望かを歌っているんじゃないんですか。
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