141 じっくりと庶民追う
   森敦さん、連載を完結
   「月山」以来、10年ぶりの小説
出典:西日本新聞(夕刊)昭和62年2月10日
最後の小説かも…
 森敦さんが三年にわたって雑誌「群像」に連載してきた長編小説「われ逝くもののごとく」が二月号で完結した。本格的な小説の執筆は「月山」(四十九年芥川賞)いらい十年ぶりだった。講談社から単行本として出すため、いま千六百枚の原稿に手を入れているが、「十年勤め、十年遊ぶ」という若い時からの習性に従って、「しばらくは思索の生活を送りたい。ひょっとすると、小説はこれが最後になるかもしれない」と話した。
 「われ逝くもののごとく」は五十九年の「群像」三月号から連載が始まった。毎月四十五枚前後の量だが、レギュラーのテレビ、ラジオ番組はもちろん、講演もほとんど断った。
 「僕は才能がないですからねえ。才能のないのは努力するほかないんですよ」
 朝六時に床を離れてパンと牛乳で軽い食事。正午まで机に向かい、昼食と仮眠の一時間を挟んで午後八時まで執筆という毎日を送った。ほとんど外に出ないため、もともと弱っていた足がなえ、白宅玄関のわずかな階段さえ介添えなしでは上り下りできなくなった。
 七十歳を超した森さんにとって、こうした集中力の強制は極度の疲労を生むだろうが、「精神的に疲れると、数学の問題でも考えて気分転換を図る」と言う。机の上には位相幾何学の数式が何枚か書き散らされている。
体験と思索を基に
 「われ逝くもののごとく」は、山形県の西北部一帯が舞台。「月山」が、山村の古寺でひと冬を過ごした「私」を通して、村人の暮らしぶりを幻想的に描いたのに対し、今回は、太平洋戦争によって崩れてゆくサキ一家を中心に、庶民の生きてゆく論理を追っている。
 森さんはこれを書く前に、自分の体験と思索をまとめた「意味の変容」を「群像」に連載、「マンダラ紀行」では曼荼羅(まんだら)のもととなる宗教と、そこから生まれて庶民の信仰となった弘法大師や霊場巡りとを対比させている。このなかで森さんは、ひとひねりして両端を結ぶと表と裏の区別がつかなくなるメビウスの帯と曼荼羅との一致を明らかにし、霊場巡りが永遠の生を願う庶民の信仰となっていった背景を説明している。
つい古里なまりが
 「われ逝くもののごとく」は、サキら二十数人の庶民を登場させながら、森さんのそうした思索を背景に、淡々とした筆致のうちに、生きとし生けるものをうたいあげた。
 「月山」いらい森さんと山形県の結びつきは深まるいっぽうだ。「月山」の舞台となった同県東田川郡朝日村には三年前、森さんの文学資料館と文学碑も建った。毎年八月末の月山祭には同村の招待を受けている。
 だからと言って、生まれ故郷の九州を忘れたわけではない。いま雑誌「旅の手帖」に「わが人生の旅」を連載、父母や兄弟のこと、故郷の山河のことを描いている。三月号で六十六回。「生きとる間、書き続けてくれと言われとります」と言う。この「わが人生の旅」の話になると、山形の庄内弁に代わって、熊本の牛深なまりや長崎弁のイントネーションが出てくるのが面白い。
急ぐことなく
 「言葉というのは、京都なり東京なりの中央を中心に同心円を描いているようなもので、だから九州人の私にとって、庄内弁は分かりやすい方言なのですよ」
 「われ逝くもののごとく」の推敲(すいこう)を仕上げたら、「意味の変容」と「マンダラ紀行」に続くものを書きき下ろす予定。「意味の変容」と「マンダラ紀行」は七稿まで推敲して編集者をあぜんとさせた。が、「われ逝くもののごとく」は連載中のものを初稿とすると、今回の二稿でやめるという。「やっぱり年ですかねえ」と笑ったが、日課は初稿のときと同じで、校正刷りのゲラには削除の赤線と推敲挿入の付せんが各ページにわたっていた。六十歳から作家生活に入ったとはいえ、いまだ森さんは急ぐことなく、じっくりと自分を醸成しているようだ。
(竹原元凱記者)
◇   ◇
 もり・あつし 一九一二年長崎市生まれ。この二十二日で七十五歳一高文科中退。十九歳のとき横光利一の紹介で毎日新聞に「酪酎船」を連載。そのご光学機械の会社、ダム建設、印刷会社に勤務のあと四十八年「天沼」「月山」で再デビュー。東京都新宿区市谷田町三ノ二〇。
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