003 還暦派の新人文壇の門に
出典:夕刊フジ 昭和49年1月16日(水)
 あす十六日夜、東京・築地の料亭「新喜楽」で、第七〇回芥川、直木両賞の最終選考会が開かれる。奇しくもこんどの両賞侯補者に明治生まれの作家が顔を出したことから、文壇で若い作家の不毛を嘆く声しきり。話は戦後の国語教育批判にまでエスカレートするのだが、たしかにここ数年の両賞受賞者の平均年齢をみると芥川賞が40歳、直木賞が44歳だとか。かつてあの石原慎太郎さんが“太陽の季節”でさっそうと芥川賞を受賞したときは22歳、平岩弓枝さんが“鏨師”(たがねし)で直木賞を受賞したときは27歳だった…。ホントに若い人は小説を書けなくなったのか? まず、日本文学の若手不足を漢かせるキッカケとなった明治生まれの“還暦派候補者”は芥川賞候補九人のうちの森敦さん(61)と、直木賞候補八人のうちの植草圭之助さん(63)の二人。
 森さんは「季刊芸術」誌に掲載された「月山」(がっさん)が、予選を通過して、候補となった。発表された経歴欄には、旧制一高中退で、近代出版勤務とあり、作品欄には「天沼」49・1文芸─とあるだけ。
 しかし年配の文芸雑誌編集者は「あの森さんじゃないのかな」と驚いた。たしかに聞いてみればこの森さんは菊池寛、横光利一などという、昔々に亡くなった作家にかわいがられたというし、太宰治、檀一雄らとも文学仲間だったという。
 かれこれ三十数年間、雑誌などには発表しなかったというのに、こんど芥川賞候補として突然、現れたのである。
 「いまの会社にきてから十年くらいになりますが、それまでの三十年間くらいは、ずっと放浪してました。北から南から、カツオ船に乗ったり、樺太の奥地でヤクート人と暮らしたり。その間にも、出版社から書かないかといわれもしたが、ただ、生涯茫々としてきたんです。ま、今様にいえばヒッピーですかな」
 毎朝、始発の山手線電車に、小さなワラ半紙を持って乗り込み、出勤に間にあう時間まで山手線を二周、三周しながら候補作の「月山」を書きあげた。
 十四、五年前の一冬を過ごした東北の霊場、月山を舞台に、密造酒づくりをしている村の人々との幻想的な交わりが書かれている。
 一方、直木賞侯補のオールド・パワー、植草さんは、知る人ぞ知るシナリオ・ライター。
 戦前に、「生活の河」で映画界にデビュー、戦後まもなくに黒沢明監督とコンビを組み「素晴らしき日曜日」で毎日映画脚本賞。 「酔いどれ天使」で毎日映画賞を受賞している。テレビでも、TBSの「東芝日曜劇場」などで数々の名作を発表している。
 その植草さんが、初めて書いた小説が別冊文春に発表された「冬の花 悠子」。植草さんが劇作家として成長する昭和十六年暮れから十七年が背景で、吉原の遊廓で知りあった女性、悠子が描かれている。
 植草さんは、昭和四十三年の春、映画、テレビの仕事からいっさい手をひき、交遊も断って、この小説を書いていた。
 「親しい友人ほど、いまさら小説を書くなんてやめろ、泥沼に落ちこむぞ、と忠告してくれました。しかし、どうしても、私自身の青春の記録を散文で書きたかったんです」
 これが直木賞侯補に。
 「よろめきながら書きあげたんですが、ダメなら、映像の世界に戻らず、夫婦二人でひっそり暮らそうと思ってました」と植草さん。
小説を書いている間、無収入だったから「最低の生活をもちこたえてくれた女房に感謝しています」と、秀子夫人のことを、何度も何度も口にだす。
 さて、小説とは、こんなふうにして書くもの、文学とは、こんなもの…二人のこんな話から、日本文学の若手不毛論が、いま文壇で展開されている。
 たとえば「文学界」(文芸春秋)の西永達夫編集長は「二十代の人が新人賞に応募する数はそれ
ほど滅ってはいないんですが、どういうわけか最後まで残りませんね。たとえば戦争中の飢えなどを知っている人はそれがモノを書く際のバネになるということがありますが、いまの若い人にはそういった切実な体験がないでしょう。長い間天下太平がつづき、過保護的に育てられているのですね。若い人の原稿を見ると、字を知らなかったり、やたらにむずかしい単語を消化不良のまま使っているのがめだちますね。○×式のテストに象徴されるように“文章を書かせる”教育が少ないからでしょうか。まあ、優秀な新人が出ないからといって日本文学の終末だと、そこまで深刻ぶることもないとは思いますが…」
 また、直木賞の選考委員をしている作家の今日出海さんも、「とにかく若いのにいいのがいないんだなあ。いまの若い人は気の散ることが多いんで、じっと書斎へ閉じこもって文章を書くなんてことしないんじゃないかな。やっぱり人生の経験を経た人のほうが(作品が)しっかりしているよ。国語教育のせい? 教育もよかぁないけど、それが原因じゃあないと思うが…」という。
 ここで“61歳の新人”─森さんの話もきいてみよう。
 「若い作家がなぜ出ないか。経済的な問題ですよ。昔と違っていまは、まず生活の道を確保しなければ暮らせない。会社に就職して、収入を確保してか書くというケースが多い。だから、年齢が上がるのは社会的必然ですよ。妻子眷(けん)族を泣かし、友人宅に居候、朝から晩まで文学一筋という悠長な世の中でなくなったということですよ」
 また植算さんも「外国じゃ、四十代で新人、ほんとうに書けるのは五十を過ぎてからといわれている。人間生活の裏表というか、実人生との深いかかわりがあってからの方が、いいということじゃないですか」
 若くして…の天才が出ないだけで、まあ、日本の文学、そう悲観したものでもないという診断だが。
最後に両氏よりはるかに若い芥川、直木両賞の候補者をあげると─カッコ内は年齢、敬称略。
 【芥川賞】太田道子(29)岡松和夫(42)金鶴泳(35)高橋昌男(38)津島佑子(26)野呂邦暢(36)日野啓三(44)吉田健至(42)
 【直木賞】有明夏夫(37)安達征一郎(47)滝口康彦(49)戸部新十郎(47)古川薫(48)皆川博子(44)康伸吉(48)
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