014 “60代新人”で返り咲き
出典:毎日新聞 昭和49年1月19日(土)
 第七十回芥川賞は、同賞初の“六十代新人”森敦氏と三十六歳の野呂邦暢氏に決まったが、惜しくも逸した日野啓三氏も含めて三氏が有力だった。十六日夜の選考会では、最初、三人受賞という意見も出た。しかし、まず、二人受賞という線が決まり、三氏のうちだれを割愛するかで二時間近い白熱した議論の結果、次のような投票になった。
 ▽森・野呂=4票▽日野・森=2票▽日野・野呂、野呂・金鶴泳=各1票▽なし=1票。
 この結果、日野氏が涙をのんだが、選考委員を代表して丹羽文雄氏は「森氏の雪の描写は日本文学史上、もっとも清冽(せいれつ)なものであり、野呂氏は前回目立った技巧をこんどは非常に抑えていたのが有利だった」と語った。
 一方、直木賞は、康伸吉(やす・のぶきち)氏と植草圭之助が最後まで残ったが、受賞作なしが四票占めて今回は見送られ、結局、第六十回とは逆、第六十八回と同じ芥川賞二人、直木賞なしとなった。
 菊池寛や横光利一と親しく、太宰冶や檀一雄氏と友人という森氏は、六十二歳とは思えない若さ。印刷会社の会計をつとめているが「借金のうまさだけは自信がある」と笑う。戦前、毎日新聞(当時の東京日日新聞)に、「酩酊船(ゑひどれぶね)」を連載したのが処女作。以後、奈良、サハリン(樺太)、山形を放浪して歩き職業もレンズ会社、建設会社を転々として昭和四十四年「吹浦にて」を発表するまで三十年間、筆を断った。
再びペンをとった動機は「老い先が短くなったので人生を二度送りたくなったからだ」という。小島信夫、古山高麗雄氏らにすすめられて受賞作「月山」を書いたが「受賞はやはりうれしい。ただこれで年齢がバレるのがいちばんこわかった」と語っている。不思議
な人柄である。
 一方、野呂氏は自衛隊員当時の体験を「草のつるぎ」としてまとめたが“五度目の正直”だけに「母がいちばん喜んでくれる」と語る。「これからもここ(長崎県諫早=いさはや=市)に留まって老人問題や受験地獄をテーマとしたものを書きたい」と意欲に燃えている。
↑ページトップ
森敦関連記事一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。