030 “もう一回人生をやり直し”
出典:毎日小学生新聞 昭和49年3月9日(土)
 六十二才というと、みなさんのおじいちゃん、おばあちゃんになるだろうか。この年令(ねんれい)で、もう一回仕事をやり直しをするとしたら、これはたいへんなことです。それをやってみようというのが、森敦(もり・あつし=写真)さんという人です。芥川(あくたがわ)賞を、このあいだもらった人です。芥川賞というのは、いつか小説家になろうと、すぐれた小説を書いた人にあげるものですが、これまではせいぜい年をとっても四十才前の人がほとんどでした。森さんは、七十回の芥川賞受賞者のなかでも最高の年令です。
文・金井俊夫(毎日新聞東京本社学芸部)
 もっとも、人間はいくら年をとっても、必ずしもすぐれたことをするとは限りません。若くても、りっぱな仕事をしている人はたくさんいます。森さんも、二十才のころ、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に「酩酊船(よいどれぶね)」という小説を連載(れんさい)しました。菊池寛(きくち・ひろし)、横光利一(よこみつ・りいち)という当時のすぐれた小説家に認められて、この小説を書きましたが、二十才そこそこで、大新聞の小説を書くのは、実にめずらしいことでした。すごい奴(やつ)があらわれた! と川端康成(かわばた・やすなり)、高見順(たかみ・じゅん)太宰治(だざい・おさむ)丹羽文雄(にわ・ふみお)さんたちが目をみはりました。この人たちだってまだ、三十才前後で“新人作家”と認められはじめていたころです。
 森さんは、そのころ、若いせいもあったでしょうが、生意気(なまいき)でした。生意気という意味は、自分の考えていることをどんな人にも聞いてもらいたい、相手と徹底(てってい)的に議論しなければ気がすまない、ということです。昭和十年ごろ、奈良に住んでいた志賀直哉(しが・なおや)さんの家にまで押しかけて、二十才以上もちがうこの“小説の神様”と議論したほどです。
 森さんには、それだけの自信があったからです。自分の勉強のほうがいそがしくて、学校(第一高等学校=現在の東大教養学部)へ行かず、授業料も納めませんでしたので、中途退学になりましたが、森さんは平気でした。「自分から学校を追放(ついほう)したんですよ」といいました。森さんのその勉強というのは、小説や文学に、科学的な考えをどうやったら生かせるか、ということです。小説は、作家が感動したり、興味をもったりしたことを、そのまま書けばいい、という考えが昔からありました。
 しかし、これでいいのか。感動や興味にも、ある一つの構造があるはずだ、というのが森さんの考えでした。これには、森さんが京城(現在の韓国=かんこく=のソウル)の中学生時代から、外国の数学者のことを勉強していたので、多くの小説家とは、ちがう考えをもっていたのです。
 日本の小説にはないものを書いてやる、森さんはそう思っていましたが、第二次世界戦争や敗戦後の混乱(こんらん)で注文(ちゅ
うもん)もなく、森さん自身、レンズ会社やダム工事の監督官になったりして念願が果たせませんでした。四、五年前、山形県で暮ら
していたとき、月山(がっさん)や鳥海(ちょうかい)山のふもとで暮らしている老人の生活を題材(だいざい)にして、再び小説を書きはじめました。それが「月山」という芥川賞受賞の作品に実(みの)ったのです。
 「いたずらに年をとりたくない。四十年前の、あの充実(じゅうじつ)した気持ちでもう一回やってみよう」。そう思ったのです。
「もう一回、人生をやり直してみよう」と決意しました。ところがどうです。その「月山」の力強さにみんな驚いてしまいました。新聞、雑誌、テレビ、みんなやって来ました。森さんはタレントのようになってしまいました。「アップダウン・クイズ」に出たり、四月から一年間、NHKの「ビッグ・ショー」に出ます。
 「でもね、これはいまだけのことです。ぼくは、木の葉が波のまにまに浮いてあまり遠くへ流されないことを知っていますから、そのつもりでやっているだけです。引き潮のときがいちばん恐ろしいんです。しかし、それは大きなものほど恐ろしい。ぼくは木の葉の浮き身術でじっくりやってゆきますよ。こんなに年をとったら、あまりあせってもしかたがありませんからね」口もとでは笑いを浮かべていますが、眼鏡(めがね)の奥で、森さんの目は光っていました。
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