050 続 一冊の旅 森敦 月山B
出典:河北新報 昭和52年8月19日(金)
 森敦の「月山」には、月山の山ふところ、それも山また山に囲まれた、谷間の集落の土俗の暮らしが、四季の移りかわりとともに、あざやかに描かれている。
 
 
 ──したたるばかりの緑は、いつしか、夕映えのように、紅葉しはじめる。やがて、雪おこしの雷が鳴って、新雪をみ、根雪となってゆく。黄菊の群れが雪に折れ、雪をかぶっても、まだ咲いている。セロファン菊とか、パリパリ菊とか、いう。
 
 
 ──注連寺の本堂の雪囲いの木組みにも、むしろが張られ、寺は、雪に埋もれる。寺のじさまは、扇、千本、賽(さい)の目と、さまざまな形に切った大根を入れて、みそ汁をつくる。
 
 
 ──十王峠を越えて、カラスがやって来る。密造酒の買人である。背負ったゴムの水まくらを隠すため、黒いマントを着ているのだ。ゴムひも、歯ブラシなどを持った行商人や、刃物の研ぎ屋とか、ノコギリの目立て屋が、吹雪にまぎれて、村を訪れて来る。
 
 
──本堂で、念仏の集まりがある。村人たちが、心経を唱え、御詠歌をうたって、あとは、無礼講の花見である。花見とは酒盛りのことだ。ニンジンやカボチャをまぜた、小豆がゆみたいなイトコ煮をさかなに、たぬき徳利で茶わん酒をくみかわす。後家の女とのふれあいが、わずかに、無事な『私』の生活に色どりを添える。
 
 
──吹雪がたえて、富山の薬売りが、春を告げて、顔を見せる。旧暦の桃の節句が過ぎると、梅も桜も桃も、一時に咲く。小鳥の群れが、渡ってきて、と絶えていたバスは、もう、大網まで通じている……
 
 
 ひと昔も、ふた昔も前の、七五三掛であろうが、私は、いま注連寺の回廊に腰を、下ろし、涼風にあたりながら、「月山」の時を、過ごしたような心地がするのだった。
 小島信夫は、「『月山』は……美しくて空恐ろしいものを、そして墨絵のようなもの、その奥から書こえてくる親しみのあるそして恐しい声……をきけば、それで十分ではないかとも思わぬではない」(「『月山』について」)と、書いている。
 「月山」の『私』は、春の終わり、青葉、若葉の茂るころ、迎えに来た友人と、注連寺を去り、十王峠を越えて、市井に帰ってゆく。
 注連寺から、来た道を大網へ戻り、近くの大日坊へ行く。ここは、注連寺より規模はさらに大きく、貸し切りバスが門前に横づけになり、観光客で本堂はあふれていた。即身仏、真如海上人のミイラがある。
 事は別だが、ミイラといえば、「月山」に、ミイラをつくる話が出てくる。おはぐろの入れ歯のばさまが語るくだりは、わずかな行数だが、長編の怪奇小説も及ばない、戦慄(せんりつ)を感じさせる。
 大網からバスで、国道112号を田麦俣へ。昔の六十里越街道である。十数分。田麦俣は、四十戸ほどの集落だが、多層民家が残っているので有名だ。壮大なかやぶきの屋根、採光と煙出しを兼ねた窓、かぶと造りの多層式建築は、豪雪や養蚕の生活をうかがわせる。
 さらに、バスを乗り継ぎ、約三十分で仙人沢に着いた。標高千メートルに近い。ことし六月、新築オープンしたばかりの湯殿山仙人沢参籠所に泊まる。
 夕焼けであった。「月山」の『私』が見た、あの「赤いというか、黒いというか、地獄の火のよう」な色とは違い、なごやかな空が、暮れてゆく。
新月 通正記者

六十里越街道
 和銅五年(七一二)、出羽の国、庄内に国府が置かれ、内陸部と結ぶ道路が必要となって、開かれた。山形から寒河江、大越峠を経て、田麦俣、大網を通り、十王峠を越えて、鶴岡に通じる。
 中古、湯殿山信仰が盛んとなり、次第に整備され、戦国時代には、軍事上の要路であった。大越峠を越える山坂の難所が、六十里もつづいたので、六十里越街道と呼ばれるようになったという。
 現在は、新道が開発され、国道112号となっているが、舗装工事が進み、ハイウェーとして生まれかわる日も、遠くない。
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