051 続 一冊の旅 森敦 月山C |
出典:河北新報 昭和52年8月20日(土) |
夜半に一度、目ざめたときは、降る星空だったが、未明からガスが出はじめ、早朝は、霧雨模様になった。 山男氏は、空をながめて、案じ顔だったが、「大丈夫でしょう。晴れますよ」という。すべて、先達に従うほかない。六時きっかりに、宿を出発した。 ゆっくりとカーブを描く、なだらかな舗装の坂を上ってゆくと、約三十分で湯殿山神杜である。まだ、門は開いていない。ガイド・ブックによると、ご神体は、熱湯を噴き出す巨岩だそうだ。 すぐに、けわしい岩道の月光坂である。はじめは、水の流れる小さな沢になっている。ところどころ、鉄ばしごがある。荷物は全部、山男氏に持ってもらい、杖一本にすがって、よじ登る。四、五十分。坂を上りきると、施薬小屋があった。薬湯を飲んで、一息入れる。 ここからは、ややこう配のゆるい山道がつづく。そのうち、山男氏が判じたように、次第に天気はよくなってきた。小さな雪渓が、いくつも現れる。ヒナザクラ、ハクサンフウロ、チングルマ、トウヤクリンドウ……教えてもらって、初めて名を知った高山植物が、かれんな花をつけている。ニッコウキスゲの花畑もある。 一時間余りで、牛首に着いた。立ちこめていたガスが薄れ、消えた。右手、姥ケ岳の雪渓で、夏スキーを楽しむ群れが、点々と見える。頂上に近い鍛冶小屋が、手の届く距離に、仰がれた。しかし、道は、胸突きになる。すこし歩いては休み、また登る。羽黒山口から登ったグループが、次々と下って来るのに、すれ違う。そういえば、湯殿山口から来たのは、私たちと、途中で追い越して行った、三人連れの青年だけだった。一時間かかって、やっとの思いで、鍛冶小屋にたどりつく。 山頂は、もう近い。しばらく行くと、芭蕉の句碑が立つ。 雲の峰 いくつ崩れて 月の山 月山の頂上は、にぎわっていた。やはり、白装束の行者姿が圧倒的に多い。新潟、八戸、大船渡などの参詣団であった。頂上小屋で昼食をすませる。空腹のはずだが、食欲はあまりない。月読命をまつるという、月山神社に参る。 下りは、長いだらだら坂である。最初の計画では、山頂から東へ、肘折に下りようと思ったが、月光坂と鍛冶小屋近くの急坂ですり減らした私の足では、まる一日行程のこのコースは、とてもだめと分かって、あきらめた。 森敦「月山」の『私』は、肘折の渓谷にわけ入って、月山がなぜ、月の山と呼ばれるかを知った。「彼方に白く輝くまどかな山があり、この世ならぬ月の出を目のあたりにしたよう」に思う。そして、月の山は、死の山なのである。 「月山」は、人間の姿、生と死を追求した小説である。しかし、「月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです」。 九合目の仏生小屋を過ぎ、池塘(ちとう)群が美しい。池塘と高山植物は、高原のあえかな、えくぼである。バラモミ雪渓を渡ると、弥陀ケ原であった。月山と、「この世のあかしのように対峙(たいじ)」し、月の山、生の象徴とされる鳥海山は、入道雲に隠れて、ついに見えない。 「月山」の巻頭に引かれた論語の言葉が、実感をもって、私の心にこつ然と、わいてきた。「未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん」──。 私たちは、八合目の停留所から、鶴岡行きのバスに乗った。 |
新月 通正記者 |
↑ページトップ |
森敦関連記事一覧へ戻る |
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。 |