056 田中英光に幻の長編
出典:朝日新聞 昭和53年9月11日(月)
 太宰治の墓前で自殺した作家田中英光は、出世作とされる「オリンポスの果実」を発表(昭和十五年九月)する以前に、長編小説「独楽(こま)」を書き、師事していた太宰に送っていた。これは、最近、故檀一雄氏宅で見つかった太宰あての田中の手紙で明らかになった。戦後間もなく、自らの破滅的生活を赤裸々に描いた凄惨(せいさん)なまでの作品で脚光を浴びた田中について再評価の声がでている中で、この幻の原稿の行方は、文壇、出版関係者の興味を呼んでいる。
 
 田中は、早大在学中の昭和七年、ロサンゼルス・オリンピックにボートの選手として出場、その回想記ともいえる「オリンポスの果実」(文学界)で文壇に登場した。同じオリンピック代表の女子選手への清らかな慕情をつづったこの作品は、日本では異色な青春
小説として、田中の文名を高めた。昨年一月、NHKの銀河テレビ小説で、昭和の青春シリーズとしてドラマ化もされている。
 田中は戦後一時期、日本共産党に入党、「新日本文学」を舞台に作品を発表していたが、脱党。二十四年、アドルム中毒と、新宿・花園町の「たいへんな女」との生活を描いた「野狐」を発表した。青春小説の旗手から戦後無頼派への変身にもかかわらず、田中の作品の奥にある「やさしさ」に共鳴する熱烈な読者も多かった。この年の、五月、アドルムによる錯乱から「たいへんな女」の刺傷事件を起こし、同十一月、太宰を追うように、墓前で自殺した。三十七歳だった。
 太宰への手紙は、一昨年亡くなった檀一雄氏の遺族が、ことし六月、故人の部屋を整理していて、見つけた。昭和十一年十月九日付で、原稿用紙二十一枚。「『独楽』の自序に代へて」と題し、「太宰さん。手紙を書きます。いつか申し上げたぼくの、五百枚の手記はできました。別便でお送りします」という書き出しで始まる。
 この手紙の中で田中は「近頃北条民雄の『癩院受胎』と島木健作の「癩」を読みました。そして、はっきり、ぼくが負けたと感じたのです」と、この二つの作品に打ちのめされた心情を訴え「独楽」が太宰の「道化の華」を超えた作品かどうか、と揺れる心をさらけ出している。同時に、「イイモノダヨ」と評価される異常な期待を持ちながら「独楽」を送る気持ちをめんめんと記している。「もし、(「独楽」を)いいものと、あなたが感じられないときは、どうぞ、一言もお書きにならないで、あなたの筆ではなしに─これはどうだってかまいませんが、送りかへして下さい。送りかへされるのが面倒なときは、ただ、ダメと書いた葉書をください」
 田中英光の作品を集録した「田中英光全集」(三十九年、芳賀書店、絶版)全十二巻に「独楽」は収録されていない。
 太宰、田中の友、森敦氏は「あの『オリンポスの果実』について太宰が、まだ甘い、といっていたのを直接、聞いたことがあるから、それ以前の小説があるとは思っていた。見つかったらぜひ読みたい。文学史的にも意義があるものだと思う」と語っている。さらに森氏は、「田中の作品は、太宰の作品が騒がれると同じように、もっと高くかわれてもいい。かっている人もいると思う。その『独楽』という作品が『オリンポスの果実』とどうかかわっていくのか、興味があります。ひょっとしたら独楽がオリンポスではないですか」と推理している。
 「オリンポス以前に習作があってもおかしくない」と、太宰の夫人で田中を良く知っていた津島美知子さんもいう。しかし、その津島さんも、田中の次男で作家の田中光二氏も「独楽のことはまったく知りせんでした」といっている。
 田中の手紙は、十二日発売の雑誌「太陽」(平凡社)10月号に全文掲載される。
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