059 物語の女 森敦 『月山』 (本誌 山本茂)
出典:サンデー毎日 昭和54年7月1日
 かつて森敦が、ひと冬を過ごした湯殿山注連寺は、凄みのある山寺だった。
 猛吹雪から本堂を守る雪囲いの木組みは夏の間も解かれず、数本の太い突っかえ棒が本堂の右側面を支え、倒壊を防いでいる。この堂内に数奇な運命をもつ鉄門海上人の即身仏が納められているという事実も、私の心を一層ぶきみにした。
 私の訪れた六月上旬、庄内平野は梅雨の前の快晴が続き、境内はひっそりとして、霊域の森ではカッコウの声がこだました。
 山形県鶴岡市の駅前から出た定期バスは約一時間かけて山腹の大網バス停に着く。そこで私を降ろすと、バスは合掌造りに似た多層民家で知られる山奥の田麦俣集落へ登っていった。
 バス停から約二キロの山道を行くと、注連寺の思いがけず広壮な屋根が見える。石段を登りつめたところで、今まで隠れていた月山(一九八○メートル)が現れた。重畳たる緑の山脈のかなたに月山は残雪を白銀に光らせていた。
 死者の行くあの世の山!
 
亡者の中、生気あふれた寡婦
◆…或る日私の「紙の蚊帳」を訪れて
 
 小説『月山』は、素姓も定かならぬ放浪者の「私」が、ふらりと訪ねた注連寺で、寺男のじさまと二人きりで厳冬期を明け暮れする物語である。この地区は全戸が「渡部」姓を名乗る薄暗さ、ドブロクを密造して現金収入を得ている犯罪性、さらに行き倒れのやっこ(乞食)をいぶしてミイラに仕立ててしまうという噂のある排他性のある集落、として設定されている。
 よそ者の「私」は、自分にそそがれる意味不明の薄ら笑い、村人が振り返り「これがあれか……」といった視線をいぶかしく感じるのだった。
 三十八歳の森敦が、この村で生活したのは昭和二十五年八月下句から翌二十六年五月までの約十カ月足らずであった。森は、「私は十年働き、つぎの十年は遊んで暮らす、という周期をもっている。あの時は、ちょうど遊びの周期にあった」
 と語るが、やがて『季刊芸術』の古山高麗雄編集長の熱心な勧めで、この体験を作品化することになった。昭和四十七年のころ、飯田橋の小さな印刷所に勤めていた森敦は、朝一番の山手線に乗る。やおら、ひざの上にゲラ紙を裏返しにしてシャープペンシルで書きつけた。山手線を二回りすると、出勤時間になった。こうして書き上げられた小説『月山』百六十枚は『季刊芸術』48年夏号に発表され、第七十回芥川賞を受賞した。
 『月山』は時を経るごとに名作の評価が高まり、組曲『月山』がつくられ、映画化もされて来月公開される。
 死者の行く月山のイメージに喚起されたのか、注連寺の念仏講や観音講に集まるじさま、ばさまは、もはや亡者の群れのごとく見え、本堂はさながら“冥界”のごとく私には思われる。
 その中にあって、流れ者の「私」と、その「私」が心ひかれる若い寡婦の二人だけは亡者になりきれない異様なナマナマしさを漂わせている。この二人に通いあう名状しがたい、淡く、しかし哀切な交情は、ちょっと類をみない。この小説は、実在の集落である山形県東田川郡朝日村大網七五三掛の土俗的世界を舞台にした稀有のラブロマンスといっていい。
 酒田市の海向寺住職、伊藤永恒和尚は、森敦が初めて注連寺へやって来た昭和二十五年のある夕ぐれを覚えている。
 森は絣の着物を着流しに、ゲタばき、髪はオールバックのざんばらで、背に行李を一つひっかついでいた。
 伊藤永恒は二十歳そこそこで、まだ得度前のため名前も賢章と称し、護摩修行にこもっていた。賢章青年の師であり注連寺住職を兼ねていた鶴岡市の龍覚寺、菅原則冲住職から「文士が一人そっちへ行くから、どこでもいいから泊めてやってくれ」と前もって連絡が来ていた。
 この奇妙な客は庫裏の二階、というより屋根裏に住むことになり、下から畳を運び上げ、八畳分の部屋をつくった。太い梁は剥き出しで、雨戸は朽ちはてて風が吹くたびにワラワラと鳴った。
 終日、ぶらぶらと村内を歩き回る男について、村人たちは「なんしに来たんだろうのう。あったらとこで何してるだや」「なにおもしろくて、こったらとこへ来て」と噂しあった。
 やがて本格的な冬になり、伊藤賢章が下山する十二月に、森敦は和紙をとじた祈祷簿をばらして八畳分の蚊帳をつくる。小説の中で最も美しいイメージとなる紙の蚊帳である。
 
……女はそれとなく、膝に置かれた黒いモンペ姿の男の手を払い、
「お前さま、和紙の蚊帳つくっているというんでろ。どげなもんだかや」
「どうって、まァ繭の中にいるようなものかな」
……と、言うのを受けて頷いたのは、首振りのばさまであります。
「だども、カイコは天の虫いうての。蛹を見ればおかしげなものだども、あれでやがて白い羽が生えるのは、繭の中で天の夢を見とるさけだと言う者もあるもんだけ」
 
 ここに描かれる「女」は、いつか寺の裏山である独鈷ノ山で出会ったことがあり、冬になってから寺の庭で雪の下になっていたセロファン菊を掘り起こして本堂に活けてくれた心やさしい寡婦である。
 村は冬ごもりに入っても、時折、注連寺で念仏講が行われる。この講へ参加できるのは、六十歳以上のばさま、六十歳以上で女房を失くしたじさま、そして後家、はすべて参加できる決まりになっていた。
 欲も得もなくした男女が、それぞれ手料理をもって寺に集まり、ささやかな祭礼をひらく。彼らは、いわば現世に未練をなくした“亡者”たちなのだ。
 小説では名も与えられていない“セロファン菊の女”は、妖しい魅力をたたえている。自分では「おらももう、この世の者でねえさけ」といいながらも、若さは“冥界”に納まりきれない生気をみせる,
 このモデルについて、森敦は、
「注連寺で会った二人の女性の合成です。あえて一人にしぼるなら、たしか大網小学校の先生をしていて、私に講演を頼みに来たことがある人です」
 といった。
 この女性について海向寺の伊腰永恒住職に尋ねたところ、たちまち判明した。いまも七五三掛に住む渡部文子(五八)であった。寺まで訪ねてくれた文子は、色が浅黒く、灼けるような瞳が美しい、利発な婦人だった。
 隣村の東田川郡山添村(現・櫛引町下山添)八幡神社宮司の五女に生まれ、鶴岡高等女学校に進み、卒業したあと昭和十五年から大網小などの教員を続け、四十七年に退職した。森敦と出会った二十六年二月は、ソ連抑留から帰ってきた渡部利正と結婚(二十三年)して三年目という若妻だった。三十歳で、とても若後家という風情ではなかったろう。
 「私はそのころ、大網婦人会の役員をしてました。冬はひまだったから、講演会でもやろうかと語し合ったら、注連寺さおもしろい人が泊まっているさけ、あん人に講師になってもらおうと決まったすけ。というのは、冬でもだっぷら(モンペ)もはかないでいるさけの、話もおもしろそうだ、というので私が交渉役になりましての」
 文子はドブロク一升ぶらさげて注連寺へ行った。ずかずかと二階へ上がると、
「本当に紙の蚊帳の中にいるさけ、びっくらした」
 あいさつすると、男は「ちょっと入りなさい」という。気味悪かったが、
「どげな人かと好奇心があったすけ、入ってみたども、本当に別風な人だと思った」
 森敦は、こっちの依頼にはちっとも答えずに、村の将来について語りつづけた。
「腹までつかるような泥んこの水田はやめて、乾田にしなさい。村の真ん中に広い道を通して車を乗り入れられるようにする。山の尾根にローブを張り、材木などはロープで降ろすようにする。やがては雪の上を走る車もできるだろう。ま、そんなことを話したんです」
 と森敦はいった。
 
女が「私」を待っている予感…
◆…それは菊に返って戻らなかった
 
 渡部文子は、いま、村内を貫いて走るアスファルト県道を見て、
「なるほどなあ、森さんがいっていたとおりになったなあ」
 と思うのである。
 このとき、文子は二十分くらい話した、というが、森敦は二時間はしゃべった、といった。三十年前の、たった一度の情景にこれだけの記憶の違いが出るのは仕方ないだろう。
 「私は、ちょと気味悪くて早く帰ろうと思ったども、森さんが次から次と語しかけて帰れなかった」
 その森にとって、この日の渡部文子は七五三掛には珍しい美しい女、という印象となって残った。のちに『月山』が書かれたとき、主人公が心ひかれ(思いきり女を孕ませて、このままここに居付いてしまってもいい)と考えたりする若後家のイメージになったのである。
 「作家は書くときに具体的な人の顔を思い浮かべて書くもんです。そういう意味で、彼女がモデルといっていいです」
 ただし、行動の面では渡部キクノスケという家の娘がモデルになっている。伊藤永恒和尚によって、七五三掛を去って鶴岡市郊外に住む渡部喜久之亮(七三)の長女、艶(五0)であることがわかった。艶は色白く丸顔のチャーミングな婦人で、森敦が寺へ現れたときは新婚三ヵ月目、二十一歳になったばかりの新妻であった。
 大網高小を卒業した艶は、鶴岡洋裁学校を出て村の公民館で洋裁を教えていた。ムコとして迎えた大工の桂吾は八年前に亡くなったため、一家あげて鶴岡に移り、艶は病院の給食婦として働いていた。
 「私は農業をしていなかったすけ、何かあっと寺へ手伝いにいった。小説でも、独鈷ノ山で山の説明しとるとこあんだども、よく覚えてない。セロファン菊も、おらほの村ではパリパリ菊いうたども、菊もっていったり、大根をつぼけ(土中に埋蔵)たりすっとは、私の母だと思う。私はよく寺さフロを借りにいったすけ、そんなに森さんと語したことなかった」
 しかし、森敦の鋭い観察力は、この若い渡部艶と知的な感じのする渡部文子のイメージをねり合わせて、亡者の群れの中で生気を放つ若後家の姿を描き出した。女を後家としたのは、いうまでもなく念仏講に参加できる若い女の資格は“後家”しかないからである。 
 
…予感にも似たものがして、胸をときめかしながらそれとなく立って和紙の蚊帳に戻ると、果たして女は敷きっぱなしの布団の上に足をこちらに向け、わたしの枕を抱いて上半身をうつ伏せに、下半身を横にして倒れたように寝ているのです。
 
 女が「私」を待っている、と考えるが同時にこの女に“特権”ありげに振る舞う黒モンペ、ダミ声の男の存在が気になり出した。講のあとの酒宴でも、黒モンペは「私」と女との会話に割り込んで皮肉らしきことをいったりするイヤ味な男だった。
 このモデルは渡部良策(故人)という大本教信者である。村の出身だが、東京へ出て鉄道員になり、疎開に戻ったまま居ついた独り者。偏屈で横着なため、村の人とは膚が合わなかったという。よく寺にやって来ると「本尊さんに頼んだら、よいといったから持ってくぞ」といって勝手にタキギを持ち去ったり「寺なんか、いつでもメシを食わせられねば繁盛せんぞ」と食事を要求する。「大めし食って、大ぐそたれて、それでええんじゃ」が口ぐせの大男だった。
 資格もないのに念仏講などに現れ、一緒に飲んだり食ったりする。寺のじさまの門脇守太郎(故人)とは仲が悪かった。
 「なにかあると、ヤミ酒やるヤツを訴えてやるとか、水源地に毒をぶちこんでやる、とかの憎まれ口をたたいていた」
 森敦の印象に残る悪たれぶりが、小説では「私」の恋仇の役をふられた。
 紙の蚊帳で寝ていた女とは、結局なにごとも起こらなかった。 
 
……ついいまの先までここにいたのは、雪からセロファン菊を背負って来た女というよりも、セロファン菊が女の姿になって来たので、いまもこうしてここにありながら、いつかセロファン菊にかえって、戻らぬものになってしまったような気がするのです。
 
 冬はいよいよ厳しく、吹雪は吹きつのり、来る日も来る日も大根の汁ばかり。いつか吠えかかった赤犬も食われてしまったらしく姿も見えない。
「村じゃあ、ネコを見ると『おお、うまそうだな』というくらいで、犬もネコも食ったでしょう。野ウサギは大好物だし、ブナなんかにいるキクイムシも焼いて食いましたからね」
 いま伊藤永恒和尚はそういって笑った。
 注連寺を守っている橘良昌(七0)も、
「赤ネコはうまいが、黒ネコはまずいの。戦後のあのころは、若いもんが野良ネコをしめてきては食料にしとった」
 というくらい、厳冬の山里は食べものにこと欠いた。まして七五三掛地区は密造酒を重要ななりわいとしていて、カラスと呼ばれる密買人が五升も入るゴム製氷枕をかついで買いつけに訪れた。米はいくらあっても足りない道理である。
 こうした食料事情にもかかわらず、風来坊の森敦が無事ひと冬越せたのは、村のばさまたちに信頼されたからだった。絣の着物にワラぐつはいて、ひょろりと家々を訪ねたり、一緒にドブロク飲みあったりしているうちに、仲間に加えられたのだろう。
 ばさまたちだけではない。子供たちまでが勉強を習いに紙の蚊帳へやって来た。
 ある日、子供の一人が、
 「おじさん、森鴎外だろ?」
 と奇妙なこと尋ねる。
 「いや、私は違うよ」
 というと、子供はワァーと泣き出した。
 大網小学校の教科書に森鴎外の文章が載っていた。日ごろから七五三掛地区と中村地区の子供は何かと張り合っている。教科書の森鴎外を指さして、大網の小僧っ子が威張った。
 「森鴎外だば、おらほうの寺にいる!」
 それなのに、違うといわれ、メンツをつぶされた小僧の悔し泣きはなかなかやまなかった。
 「いやあ、われこそ森鴎外といっておけばよかったな、とは思うけど、知ってる人に『あいつはサギ師だ』といわれたら、これも困るからね」
 と森敦は苦笑した。
 
まさに“黄泉の国”からの帰還
◆……皎々と輝く月山をあとにして
 
 小説『月山』が芥川賞を受け、一躍有名になってから、注連寺は立派な観光ルートになった。朝日村の七五三掛地区も広く知られるようになった。しかし、小説を読んだ村人の反応は複雑なものがあった。
 たとえば、渡部文子さんはこういった。
 「おらだば頭に来たの。やっこがミイラにされる、というとこ読んで、こったら小説読みたくね、と思った。あんまり自分たちと違うこと書いてあっから、あれで小説が台なしになったような気したもの」
 これは、森敦がいた昭和二十五年ごろ、注連寺の鉄門海上人の即身仏が岩手県のテキ屋に貸し出されたまま行方不明になっていた(のちに伊藤永恒が京都の宗教博覧会で発見、取り戻す)。ミイラは寺の商売道具というわけで、やむなく行き倒れのやっこをミイラにしてしまったという真偽さだかならぬ秘話に即して、小説では黒モンペの男が次のように語っている。 
 
……吹きの中の行き倒れだば、ツボケの大根みてえに生でいるもんださけの。肛門から前のものさかけて、グイと刃物でえぐって、こげだ(と、その太さを示すように輸をつくりながら、両手を拡げ)鉄鉤を突っ込んでのう。中のわた(腸)抜いて、燻すというもんだけ。
 
 真言密教に特有の即身仏は、山形県庄内地方には六体あるが、その中の少なくとも一つは上人の遺体ではなくやっこの模造品であるという噂はたしかにあったという。
 しかし、注連寺の鉄門海ミイラがそれだ、というのは我慢ならないらしい。文子の夫、渡部利正(六一)は東京の森敦に抗議した。彼は農協組合長もやり、村議三期の実力者であった。これに対し、作者は長距離電話で延々と四十分にわたり回答してきたが、結論は次の数語に尽きた。
 「やっこでも往生すれば立派に仏になる、ということをいいたかった」
 渡部利正は納得した。
 もう一言つけ加えるなら、鉄門海上人の手形が残されているが、その指紋とミイラの指紋は一致したという調査がある。注連寺のミイラは、決してやっこの模造品ではなかった。
 山里に遅い春が来た翌二十六年五月、主人公の「私」は、タクシーで庄内平野を探し回ってやっと注連寺にたどりついた友人に連れられ、十王峠を越えて七五三掛を去る。山腹を迂回するバス道路が開通する前は、この峠越えが庄内平野へ下りる近道であった。
 峠から振り仰ぐと、死者の行く月山は皎皎と牛の臥した姿を輝かせている。しかし、三十九歳になった森敦は十王峠を越えず、友人とともにバスで県道を下りた。
 
 
 取材を終えた私は、一日二本きりの急行バスに乗り、田麦俣を越え、湯殿山を越えて反対側の山形盆地へ下りた。
 それは、やはりどこかしら“冥界”からのよみがえりを感ずる旅であった。
(文中敬称略)
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