073 とじ糸 現代の“嵯峨本” |
出典:日本経済新聞 昭和59年9月9日 |
最小の出版社の、最小のマーケットの、しかし、最高にぜいたくな本の話をしよう。 成瀬書房は社主兼小使いの成瀬隼人氏の営む一人出版社。最小十部から最大五百部の限定出版。新刊案内のDMとて千部を越えたことはないという。極限までマーケットを、しぼりこんで、最高の品質に挑戦すること、それが成瀬氏の哲学である。 こういうと、読者はいわゆる豪華本を思い描くかもしれない。たしかに昨今、重くてどでかい数十万円の画集や数百万円の複製美術品が珍しくない。しかし、成瀬氏の出版は活字中心の文学に限られているから、そんなことはない。氏はすべての本をA5判(一四八×二一〇ミリ)に統一、その制約のなかで本づくりの技をきわめる。和装・帙(ちつ)入り、洋装・箱入りなど古今東西の知恵を集めて、贅(ぜい)を尽くす。それが氏の哲学である。 たとえば近刊の「越後つついし親不知」(水上勉)は、本文特すき奉書和とじ四つ目、名花織り装表紙、あじさい織り装帙入り、帙裏面に水上氏の水墨画(野菜)がはいるというぜいたくなもの。百十三部限定、毛筆署名・落款付き、三万円。 近刊洋装の例。「もくえん(杢右ヱ門)の木小屋」(森敦)は、天銀、別珍(ベルベット)装表紙に陶板(五島良一)はめ込み、角出溝付き製本、銀染めもみ紙装箱入り。しぶい紫色のベルベットと青磁色の陶板がさえる。百十三部限定、毛筆署名・落款付き、三万円。 十部二十部の特別愛蔵本になると、高名な画家あるいは絵好きの作者の肉筆画装とか、表紙に宝石をはめ込んだものもある。自ら絵筆をとった作家には石川達三(蒼氓)、松本清張(或る「小倉日記」伝)、石原慎太郎(太陽の季節)の各氏らがいる。愉快なのは井伏鱒二氏「山椒魚」の魚拓装本。 以上の例でも察しがつくように、成瀬氏は現存作家の初期代表作を選び、その本づくりについて作者と徹底的に議論する。その結果、出来あがった本には作品の質、作家の資質が色濃くうつる。名工職人の協力。現代の“嵯峨本(光悦本)”といってよいだろう。 「年五点、十一年で六十冊、百冊に達したら打ち止めにしようかとも思っています」と成瀬氏はつぶやく。 |
編集委員 井尻 千男 |
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