095 みちのくの顔シリーズ
出典:夕刊フジ 昭和57年6月23日(火)
 もり・あつし 明治45年1月22日生まれ▽19歳=旧制第一高校中退▽昭和16年、29歳で結婚▽33〜39歳=山形県を転々。最後の年に月山へ▽39〜49歳=三重県尾鷲のダム工事、新潟県弥彦など▽50〜54歳=再び山形へ▽54〜60歳=東京・調布市に住み、「弥彦にて」「吹浦にて」「天上の眺め」など発表▽61歳=「月山」発表▽62歳=「鳥海山」刊行。
 ◆単行本「月山」(河出書房新社)は月末に第22版(980円)刊行。初版から運算30万部突破。「鳥海山」(980円)は第5版。
 ◆文春文庫「月山・鳥海山」=第4刷=(380円)
 ◆「森敦と月山」(305ページ)
(山形県朝日村役場内、森敦記念文集刊行実行委刊、非売品)
 
長崎生まれの“山形県人”
 東北新幹線開業─山形は通らないが、遠すぎた山形も、これで旅にほどほどの距離になる。
 小説「月山」を書いて、山形を売りだしたこの人も「この夏は新幹線で仙台へ行き、仙山線で山形へ入ろうかな」といっている。
 愛称モリトンさん。この人を、みんな山形県人だと思っている。
本人もその気でいるらしいが、じつは長崎生まれ。小、中学校は朝鮮の京城(当時)だった。
 こんな経歴のモリトンさんが「月山」イッパツで売りだすまでにおよそ“計算”といえるものはなかった。夫人(故人)の故郷は山形・酒田市ではあるが、それだけではこうも濃密に月山と結ばれる理由にならない。
 「家を持つと動きにくく、おもしろくないので放浪を続けました」「日本海の雪景色が好きでね。荒れる海、冬の雲の形がとってもいい」
 山形県内を放浪すること前後足かけ十年におよぶ。
 「鶴岡という町の龍覚寺の住職に“この夏は、月山の注連寺に行ってみないか、荒れはてた寺だけど、標高があるから蚊がいなくて、夏は住みいい”と勧められて」
 フーン。蚊がいないだけでも助かるなぁーと、モリトンさんは、あの小説の舞台となった月山・注連寺に入る。昭和26年の夏の終わりである。
 夏が過ぎて「帰る」というと、小説に出てくる寺の“爺さん”が「もみじを見てから帰れ」という。秋が過ぎると「雪を見てから帰れ」という。雪を待っていると、突然のドカ雪、もうバスは春まで上って来ないと知らされて、冬ごもりを決める。
 村で冬を越す人だとわかると、村人が、密造のドブロクを飲ませてくれるようになった。寺は三メートルの雪に埋まる。モリトンさんは祈祷簿の和紙をはりあわせて蚊帳みたいなものを作り、中にこもって吹き寄せる“吹き”と寒さに耐える。遅い春─雪の下から摘まれた山菜の素晴らしさ。とうとう初夏のころまで寺に居候して山を下りる。
 それからまた列島転々。
 つまり「月山」が小説になるまでに、さらに二十年あまりの歳月が流れる。
 『季刊芸術』を編集していた古山高麗雄さんが、友人に「いい小説書けそうな人いないかしら?」と聞く。二、三の候補のなかに森さんの名があった。
 「モリトンさんって誰ぁれ?」 ということになり、小島信夫さんの紹介で古山さんと森さんが初対面。
 「四十枚でも、百枚でも結構ですといいました。どういうものを書いてくださるのか、お聞きもしませんでした」(古山さん)
 月山での、まる一年の体験が百枚を超える小説「月山」となり、芥川賞を受け、あとはご存じのとおりの「月山」「月山」…である。
 観光に、スキーに人が押し寄せ、破(や)れ寺の柱も、まっすぐになり、窓にサッシもついた。六十里越街道が、月山・花笠ライン(国道112号)と名を替え、建設中の赤川ダムも月山ダムに、農協の包み紙にもモリトンさんの色紙がデザインされ、地酒、ヨウカン、そばも月山、月山…。
 「生きている間に、文学碑なんて」と本人は固辞したが、去年の夏、注連寺境内にカット(自筆の碑文)のような碑ができた。月山は、またの名を臥牛山というので、牛が寝たような巨岩である。
 「月山」を映画、芝居や曲にした人々が集まって除幕式。除幕一周年のお祭りもしようということになり、冒頭のように森さんは「この夏は、新幹線で…」のつもりでいる。
「やまびこ」
プラス
急行「月山5号」
 たとえば東京で昼めし食ってから、13・39(以下7月23日からのダイヤ)上野発の新幹線リレー号に乗ると、14・05大宮着。14・20大宮発「やまびこ」は、16・19仙台着。16・30仙台発の急行「月山5号」に乗り換え17・57山形着。山形から高速バスで走れば約2時間で月山(湯殿山)。
 「月山5号」に乗り続けると奥羽線に入り、19・12新庄着(最上川舟下りに便利)、陸羽西線に入って20・13酒田着(最上川河口のウインドサーフィン)。余目から分かれて羽越線に入ったハコは、いよいよ出羽三山(羽黒、月山、湯殿)を車窓に見ながら日本海沿いに走り出し、海べりのあつみ温泉をへて、21・05に「月山5号」の終点、鼠ケ関に着く。
 “名誉県人”モリトンさんがおかしそうに笑った
 「放浪していたころ、あの日本海べりの砂丘を一つタダであげようという話があってね。もらっときゃよかった」
文・中川 朗 カメラ・萩原 正人
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