100 墓碑銘 六十一歳で“芥川賞” 放浪作家 森敦さん
出典:週刊新潮 八月十日号 平成元年8月10日(木)
 昭和四十八年、『月山』で芥川賞を受賞した時、森敦さんは六十一歳だった。「オールド新人」「還暦を過ぎた“新進作家”」「放浪の果ての復活」などと騒がれたものである。
 その森敦さんが、七月二十九日夕・東京・市谷の自宅で「痛いっ」と腹に手を当て、真っ青になって倒れた。家人がすぐに救急車で『東京女子医大病院』に運んだが、すでに意識はなく、まもなく絶命した。死因は腹部大動脈瘤破裂。七十七歳。
「都会の繁栄の中で浮かれている人とは違うところから出てきた特異な作家で、放浪生活の果てに見た死生観が、仏教的ニュアンスをもって作品の中に見事に結晶している。昔の文学者の雰囲気を不思議に残している人でした」と、文芸評論家の高橋英夫さんは評する。
 長崎市の生れ。父親は書家で、厳格な家庭だった。京城中学から旧制一高に進学したが、一年足らずで中途退学。「先生方の授業の内容が期待はずれだったので学業を放棄した」(養女の富子さん)という。学生時代から校友会誌に文学作品を発表していた。「授業中に教室で小説を書いていた」と後年自ら語っている。「そのために退学させられた」という話まである。
 新感覚派の小説家、横光利一に師事し、二十二歳の時、横光利一の推薦で「酩酊船(よいどれぶね)」を東京日日新聞に連載し、デビュー作品となった。太宰治、檀一雄らと同人誌「青い花」の創刊に参加したが、作品は発表せず、以後全国を転々と放浪して暮すようになる。
 奈良の瑜伽山に住んでいたころ、奈良女高師附属高女に通っていた近所の娘、前田暘さんと親しくなって婚約するが、実際に結婚したのは七、八年後、その間森さんは漁船で太平洋へ出たり、樺太に渡って北方民族と生活したりした。
 結婚すると、東京の光学会社で働くが、時は戦争中の食糧難時代、夫人の実家が山形県酒田市だったので、買出しに度々山形を訪れた。そこで彼は庄内平野の清冽な自然に魅せられる。
「ぼくが東北の山間僻地に限りない愛着を覚えたのは、たとえ貧しくともそこに日本人の原質ともいうべきものを感じたからである」と、彼は書く。
 庄内平野の南東に出羽三山の一つ、月山があり、その麓の破れ寺、注連寺で彼は一年間過す。その体験が、後に小説『月山』に結実する。友人の作家、小島信夫さんによれば、「彼は場所、地形をもとに哲学を作った人だった」という。
 二度目の就職は、三重県尾鷲市のダム工事会社で土木作業に従事。以降、新潟県弥彦、山形県鶴岡周辺と、転々とする。
 しかし彼は筆を折ったわけではなかった。自分でガリ版刷りの同人誌を作り、小説や論文を書いていた。また、当時の新人作家の作品について的確な指摘をするという評判が伝わり、いつのまにか、文学青年たちの“隠れた指南役”となった。「森トンというのがいて、今熊野の奥に住んでいるらしい」といった話が口コミで流れ、新人たちが彼の批評を求めて会いに行った。
 そんな“隠れた神様”が、表舞台に引っ張り出されたのが四十八年。『季刊芸術』の編集をしていた古山高麗雄氏に口説かれて『月山』を発表すると、一発で芥川賞を取ってしまった。悩める青年が月山の麓の寺に行き、雪の中で一冬を過す物語だが、それはやがて映画化された。また『月山』の舞台となった山形県朝日村では、毎年夏に『月山祭』が開催された。
 森さんは、その後『鳥海山』『意味の変容』『われ逝くもののごとく』などを発表したが、小説家としては珍しいほど寡作である。かといって超俗の思索家といったタイプでもなく、テレビ、ラジオのトーク番組や人生相談などに気軽に出演する人だった。
 芥川賞受賞後まもなく夫人は病死し、養女と二人暮し。酒豪で、徹夜で飲むこともしばしばだった。都屋には焼酎のビンが常に並んでいた。話題は文学に限らず、絵画、彫刻、音楽何でも論じた。読書量もすごかった。
 作家の三好徹さんがいう。「古典は全部読んでおられた。仏教の教典からモハメッドのコーランまで。森さんは一種の“仙人”だったと思います。世間的な利益など眼中にない人だった」
 養女の富子きんは、
「死ぬ前の最後の夕方も、同人誌を送ってくれた人に叱咤激励の電話をしていました。叱咤する時もコテンパンにやっつける。それで這い上れないようじゃダメというわけです。ひたすら文学と闘った人でした」
 死去後、なにげない風に書きとめて、森敦と署名した文章が書斎から見つかった。それには、「われ浮雲の如く放浪すれど、こころざし常に望洋にあり」──。
↑ページトップ
森敦関連記事一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。