108 点描 森さんをしのぶ会
   父の知られざる面を富子さんが披露
出典:朝日新聞(夕刊) 平成元年10月5日(木)
遺影に献杯の音頭をとる古山高麗雄氏
=先月26日、東京・丸の内の東京会館で
 七月末に急逝した作家森敦氏の葬儀は、故人の遺志で行われなかったが、友人の小島信夫、古山高麗雄氏らが発起人となって、先日、しのぶ会が東京で開かれた。交際の範囲が広かった人らしく約二百人が参加、作家新井満氏の司会で後藤明生、評論家柄谷行人、詩人宗左近、岩波ホールの高野悦子、評論家高橋英夫、作家三好徹各氏や『月山』の舞台となった山形県朝日村からの参加者などが、故人との触れ合いを、あらためて振り返った。
 その席で養女森富子さんが森氏の最後の日々や、創作の様子などを語ったが、作家の知られない面にもふれ、興味深かった。それによれば、森氏は『われ逝くもののごとく』を執筆して以来、しばしば「天命を知った」という言葉を出した。だが、七月初めに一週間ほど入院してからは一回もなかったという。そのかわり、ビールがおいしいといって「ありがとう」、作夜よく眠れたといって「ありがとう、ありがとうよ」。毎日のように、そういう言葉をいっていたという。「七十七歳まで生きてきた自分の生命への感謝の気持ちがこめられていたのだと思います」と富子さん。
 仏教思想を哲学として追求した森氏は「仏教は好きだが各宗派にかたよるような儀式はきらいだ。般若心経だけはいい」といっていたため、葬儀をしなかったという。
 創作については、あれもこれも書きたいと意欲満々で、始まったばかりの連載と、「続・意味の変容」をいつか書き上げたいと、弱い体で渾身(こんしん)の力をふりしぼっていた。
 その森氏も『月山』で世にでる前は大変だったようだ。同人誌に頼まれ、執筆は国電の中。グルグル山手線を回って、いったん書いたものを書き換え書き換え「まるで自分の筆をメビウスの輪にのせて書くようでした」。
 途中、何度も「もうこれはあかん、捨てたい」というのを止め、ようやくゲラがあがった。校正は観光バスときめ、ある時は千葉県、ある時は富士山の方と往復してくる。朱を入れるうちに「もうあかん、破いて捨てる」。ようやく発表できたのが『鳥海山』だという。
 「どこにいっても炊事もできずジーッとしていたので、周囲の人が気になって卵などをもってきて何とか命を保っていた。なにかやってあげたくなるような、うらやましい人徳で、私もまきこまれた一人かもしれません」。そして「人生は伝説に満ちているにしても、間違ったものもある。そういう父の姿を少しでも正してあげるのと、文学の全貌(ぜんぼう)をお伝えするのが私の役目とあらためてそう思っています」と富子さんは結んでいた。
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