(文 森富子)
Part 1
*笛吹きやかん *てんご(けご) *グリ石(玉石) *三原山の溶岩
*床屋用鋏類     遺品覚書一覧へ戻る
*笛吹きやかん
 底部にBUDEN REIN KUPEER(純銅製)Thekla社とある。昭和52年(1977)ころ購入。12年間にわたり愛用。沸騰すると笛が猛烈に鳴るが、笛に気づかないほど執筆に集中し何度も空焚きをした。 取っ手が焦げていても、ぐらついていない。好きな紅茶を入れるために、日に何度も湯を沸かして小さな魔法瓶に移して使用した。火災を案じ電気ポット使用を勧めても、紅茶がまずくなると言って受け入れなかった。 空焚きで出火しなかったのは奇跡である。

*てんご(けご)
 がま、みご(わらの芯)、山葡萄の皮、あけびの蔓を材料に編んだもので、注連寺に行くたびに七五三掛のばさまたちから、土産にもらったもの。注連寺に滞在した人々は「また来る」と言って去っても再訪した人はなく、「森さんだけは、本当にまた来てくれたのう」と喜んだ。
てんごにはばさまたちの喜びが詰まっている。

*グリ石(玉石)
 グリ石を手もとに置いて眺めていた。次のように作品に描いた。
〈グリ石は川原(注・北山川)に溢れているだけではありません。川原の向こうの山にかけて散在する民家も、グリ石で道をつくり、石垣をつくり、杉皮葺きの屋根にグリ石を置いている。まるで、グリ石が山にまではい上ろうとしているようです。〉(「天上の眺め」)
〈わたしは名勝瀞八丁で知られた北山川で働いたことがある。(略)洪水が起こるたびに、川岸は一面、荒涼たる玉石の川原になる。そのようにして、すべての石は押し流されて来、押し流されて行くかに思えるが、必ずしもすべてがそうではない。中には、みずからを守って、いかなることにも動じない、中流の砥柱ともいうべきものがある。/そういう石には洪水も、僅かに上流側の土砂を抉り取るしかない。したがって、石は上流側に転がり、押し流されるどころか、溯って来るのである。〉(「中流の砥柱」)

*三原山の溶岩
 昭和61年(1986)、伊豆大島三原山が大噴火を知って、森敦は沖山明徳さんに大島行きを勧め、激励した。連作「流人」に天宥を描くうえで大噴火の臨場感を経験すべきだという勧めに、沖山さんは早朝大島に行き、同日の夜中に全島非難の最後の船に乗って島を離れた。4個の溶岩は、小さなマスの上に載せて眺めていた。密かに師弟愛の溶岩と呼んでいた。

*床屋用鋏類
 左端はカット用鋏、その右がすき用鋏で、その他は髪の毛が垂れないようにおさえるもの。カット、白髪染め、洗髪の順で、二時間半はかかった。「染めてほしい」と言い出すこともあったが、不潔の限界に達すると「髪の手入れをしましょう」と言うのだが、目的は風呂に入れることであった。床屋談義はここに書ききれないが、面白い話、不思議な話を少し記しておく。
 その一。ねむの木学園に行ったとき、子供たちが親しみをこめて「森先生の頭は、ぼくたちと同じ、虎刈りだぁ」と、誇らしげに言った。まり子さんが並んだ子供たちの髪を切るのだそうで、鋏の跡もギクシャクした、おかっぱの髪形がそっくりだ。
 その二。勤め人にとって土日は一週間分の洗濯と掃除、次週用の料理の下ごしらえなどで忙しいうえに疲労困憊しているので眠い。髪の手入れは臨時の仕事だからつらい。鋏を手にして居眠りはできないので眠気に襲われると独り言を口にした。「ああ、床屋代を百万いただきたいわ」。次のときは、「今日のお代はいくらだね」と訊かれるので、「おまけして、二百万!」と応える。
 その三。突然、ぽつりと言った。「きみの人生の中で、ぼくが、いちばん誠実だと思うだろう」。「誠実とは?」と訊こうとしたが、声が出なかった。
 その四。午後三時ごろ呼び鈴が鳴った。ちょうど、ブラシで液状の白髪染めを頭髪に塗り終わったところだ。約束をしないで訪問する人もいる。応接室で待つ客に会うために、新しい手拭いを三折りにして鉢巻状に頭に巻きつけた。紅茶を飲みながら談論風発。白髪染めの液が染み出してきて、波紋のように手拭いを染め出した。手拭いで髪を隠していると信じているのが可笑しく、唇を噛んで笑いを飲み込む。客人も目のやり場に困り、早々に帰って行った。
 その五。つらかったので高額な散髪代で表現した。前髪を短くして散髪を間遠にするため、居眠りしているうちに額の中ほどまで切った。鏡を見て憮然として怒った表情だ。以来、眠っていても前髪に鋏を入れるそのとき、目をパッチリとあけて言った。「短く切っちゃ駄目だよ」と。
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