(文 森富子)
Part 5
*『昭和文学全集』内容見本 *ベルト *スエードのハンチング *薬類 *ガリ版(謄写版)
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*『昭和文学全集』内容見本
 表に吉永小百合の顔写真が使われた、『昭和文学全集』の内容を掲載した宣伝用パンフレット。その第29巻(昭和63年2月1日発行)に、森敦の「月山」「天沼」「鳥海山」が収録された。
 自分の作品が全集に収録された喜びは大変なもので、暇さえあれば内容見本を眺めて、感慨にふけっていた。全集に収められれば、後世に残ると思っていたのかもしれない。その心を思うとせつなくて、書店で五部ほどもらってきて、書斎、応接室、寝室、トイレに備え付けた。
 死後に全集が出るとは、想像さえしなかっただろう。吉永小百合の顔写真の内容見本を見るたびに胸がキュンとなる。

*ベルト
 右端の粗末なベルトは、放浪のあいだ使っていたようだ。山形県の庄内の吹浦、酒田、大山滞在のころは、着物を着ていたらしい。注連寺に一冬過ごしたときも、同じ絣の着物を二枚持参して交互に着ていたという。
 上京すると、真ん中のベルトを使った。左は使用しなかった。身につけるもの一切を買い求めたのは富子であった。新品は似合わないと思い、古びたものを身につけさせると、突然、「新しいものはないのか」と怒り出すことがあった。密かに新品を用意しておいて、びっくりさせた。

*スエードのハンチング
 長い放浪は鶴岡市大山が最後となり、就職するために上京。みすぼらしい恰好を見かねて、職の紹介をした友人の島尾正さんが服や靴などの世話までしたのだが、そのときもらったハンチングを大事にかぶって得意げであった。ある日、ハンチングをなくして残念がり、「同じものが欲しい」というので、探したものが、これである。しかし、数回かぶっただけ。理由は、恩人の島尾さんゆかりのハンチングでないため、愛着を感じなかったのであろう。

*薬類
 鶴岡市大山から上京して近代印刷に勤め始めたころ、会社に隣接する東京厚生年金病院の内科を受診し、高血圧症との診断で主として降圧剤の投薬を受けた。担当医の松本章子先生、副院長の山根至二先生には、七十七歳の最期まで世話になった。脳血栓で倒れても回復し、最期は腹部大動脈瘤破裂で命を落とした。
 薬好きを標榜し、職場の皆さんの薬も飲むし、若いころはアドレナリンやヒロポンを飲んでも中毒症状にもならなかったと煙に巻いていた。後半生飲み続けた薬に、ノーシン(五十歳代)、アスピリン(六十歳以後)がある。早朝起きるとすぐ胃薬とともに飲むと、頭が冴えるのだと言っていた。

*ガリ版(謄写版)
@


A
B
 庄内の吹浦と酒田に住んだころ、自ら鉄筆を持ち、印刷して、同人誌「実現」(1〜3号)をガリ版で発行し、『意味の変容』の先駆稿を発表。書簡に詳しく書いてあるが、友人との文学的な交流を密にして、書くべきことを真剣に考え、意気込んでいた。
 鶴岡市大山から上京するときの荷物の中に、二つのりんご箱に入ったガリ版の道具一式があって、東府中から調布市の杉荘と移り住むときまで持っていたが、やよい荘に移るとき、あまりの重さに置き場に困り、一部を残して処分した。「ガリ版の時代ではなくなった」と呟いた。ガリ版にのめりこんだために、卓袱台にも文字の跡がつくほど筆圧が強くなり、書痙に苦しんだ。
 @は、放浪しているとき、ガリ版で生計を立てようとして、謄写版道具一式を揃えた。弟の碩さんに注文を取ってもらい制作したもの。
 Aは、ガリ版の一部と、それを包んでいた年代ものの新聞紙。
 Bは、ガリ版用の活字見本帳。ガリ版の説明書やデザイン見本などの資料を集めていたようだ。
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