(文 森富子)
Part 10
*煙草 *富士山に似た石 *室戸岬の土産 *ライターの数々 *コンパス
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*煙草(『全集F』の「タバコはわが人生」参照)
 「ききょう」は、刻み煙草。取材先からの贈り物。手元において匂いを嗅ぎ、うんちくを語った。「スモーキングケース」はショルダーカバンに入れていた。「ピース」は、香りのいい両切りの缶入りを好んだ。最後は「チェリー」を吸い、『マンダラ紀行』の表紙を「チェリー」の色にした。エッセイに、横光利一は「チェリー」を好んだとあり、師を思ってのこだわりだったのだろう。
 煙草の吸い方は、火をつけて一服したら、指の間か灰皿に置いて燃やし続けて灰にした。五十本吸うと言っても、一本につき吸うのは一、二回だけ。実質、多くて二十本くらいだった。吸うより燃やす煙草の煙で、家の壁や天井は茶色になり、書斎で使っていた漆塗りの机は、今でも拭くと雑巾が茶色になる。

*富士山に似た石
 石好き、富士山好きの森敦のために、近代印刷の同僚が作った。書斎の片隅に飾っていた。グラビアに載ったか不明。エッセイに書いたかもしれない。

*室戸岬の土産
 テレビ取材で行ったときの土産で、カバンの中に入れていた。お守りにしていたのだろうか。

*ライターの数々
 このほか、百円ライターが数えきれないほどあった。直径30センチくらいの笊に入れておいた。
 中央の紐のついたものは、百円ライターケース。NHKの「森敦おくのほそ道行」の収録のとき、いつも「ライター、ライター」と騒ぐので、伊丹政太郎さんが「首に下げておいてください」とプレゼントしてくれたもの。
 次のような談話「マイ・ホビー」(「ふたりの部屋」主婦の友社、昭和57年9月1日発行)がある。
〈私とタバコとは切っても切れない仲だ。18のころから吸い始め、ふだんの日でも100本、原稿をかくときなどは200本ほどのタバコを灰にしている。
 どこへ出かけていくにしてもライターを、それも2つから3つは持っている。1つだけでは不安なのだ。また、家にはどこの部屋にも必ず1つや2つは置いてある。ヘビースモーカーの私には、ライターはいくつあっても多いということはない。
 だからであろうか、私へのお土産といえば、ライターと灰皿が多い。トヨタからは、1936年、日本で初めて作られた車を模したライターを、フォードからも1908年製の車型のライターをもらった。トーチ型ランプをかたどったものはブリヂストンからのものだ。自分でも地方などに行くと民芸調のライターは必ず買ってくるようになった。〉

*コンパス
 『意味の変容』(昭和59年9月30日、筑摩書房刊)の書き下ろしの原稿執筆のときに使用。精密なものでなく、街の文房具店で入手できるものである。
 『意味の変容』は、森敦が生涯をかけて考え続け、全作品の根幹をなすもの。昭和31年発行の「実現」(自ら編集と孔版印刷した同人誌)に発表してから、昭和59年発行の書き下ろし単行本に至る30年ほどのあいだにも発表していた。芥川賞受賞後に「群像」に連載したものを単行本にするべきだとの声が寄せられたが、首を横に振り続けた。そんなとき、「群像」連載したものを読んで感動し、衝撃を受けた、筑摩書房の石川清人さんが、熱烈に単行本化を説得した。その熱烈さに心動かされ、書き下ろしの原稿執筆を約束した。
新たに執筆するに当たって、適宜、図を使用して分かりやすくしたいということであった。そこで、コンパスの登場となった。
 ついでに、石川さんから聞いた『意味の変容』の単行本作りの舞台裏を記しておく。書き下ろしの原稿執筆はスムーズであったが、校正の段階では熾烈を極めた。単行本の校正は、再校校了または三校校了というところだが、四校、五校くらいまで校正した。存分に校正をしたゲラを石川さんに渡した。しかし、すぐまた夜中に電話で、「○○ページ○行から○行の文章をなおしたいので、赤で書き入れておいてください」と言われたため、会社と家とを往き来する際もゲラを持ち歩き、寝るときは枕もとにおいて電話連絡に備えていた。著者の手もとにゲラがないのに、「○○ページ○行」という指示ができるのかと、不思議に思ったという。
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