015 読書
   古仏画を見るような趣
   森 敦著  月山
出典:東京新聞 昭和49年3月25日(月)
 前に近くのデパートで出羽三山秘宝展というのを三百円はらって見たことがあった。三分の一くらいは風景や山伏修行の引き伸ばし写真だったが、山頂の八紘一宇大石柱なんかが写っていて索漠たるものであった。呼びものは金襴の法衣を着せられた即身成佛のミイラで、膝もとには賽銭函がおかれていた。観光地化した現場はまさにこのとおりだろうと思った。
 小説「月山」の月山では、そういう謂わばつけたしのようなものは一切けずりとられている。在るものは大古以来の雪におおわれつくした酷薄な自然と、その下に虫みたいに閉じこめられている狡猾猥雑な人間だけである。主人公は秋のはじめに他所ものとして迷いこみ、ひと冬をそこで過ごす。
 裸にかえった自然と人間の対置または交流をとおして行間に浮かびあがってくるものは、作者のモチーフ「死」または「生から死への移行」の認識である。月山は死者の行く山だと云う。いやな臭気を発散する数万のカメ虫が谷底から飛んできて寺じゅうを埋め、やがて干からびて死ぬ。
 食を絶ち土中に自分を埋めて即身成佛をとげた高僧のミイラが祭られている。同時に、豪雪に行き倒れ行商人の死体が村民の手で内臓をくり抜かれて宙づりにされ、燻されて名物の即身佛とされる。ここでは「死ぬ」ことを「過ぎる」という。どこを過ぎてどこへ落ちつくのか。生をたどって死の正体を明めることもできないし、逆に死の側にたって生を見透すことも不可能である。
 山がそこに不断に存在しても、その山のその山たる正体は何時わかるとも知れぬ。あるとき突然に、ある角度からそれを眺めて覚るだけである。
 作者は、主人公の出あう自然と人間を仔細に追って描写することによって(とくに「です調」の説話体を用いて描写を軟らげつつ重層させるという工夫をこらすことによって)それからまた方言を巧みに援用することによって、この物語りらしい物語りのない百六十枚の小説に起伏をあたえ、読者を自分の目指すモチーフにひきずりこんで行く。この方法の効果が古佛画を見るような趣を生んでいる。
 まことに錬達の手腕と云わねばならぬ。そしてこの十全の一篇を書き終えた森敦氏が次にどういう作品を見せてくれるか、このことについて期待を持つと同時に一抹の危惧を感じたことも正直に述べておく。
(河出書房新社・七八〇円)
    作家 藤枝 静男
 
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