016 「月山」について 小島信夫
出典:河出書房新社 月山 付録 昭和49年3月30日
 森さんとは断続的にとはいえ二十何年間のつきあいである。「月山」が昨年末執筆されることが決ったあとも、度々会っている。しかし森さんが、「月山」を書くということを私に語ったのも大分あとであるし、私が「月山」という作品をこの眼で見たのも、雑誌が出てからのことであった。そういう距離が徐々に二人の間の約束のようなぐあいになった。
 普通ならこういうことは記す必要はないことであるが、この場合はどうもそうはいかないようだ。くりかえすが、そして私事にわたるようだが、私は森さんに度々会って話をしあっていたし、私の頭の中にも森さんの頭の中にあるはずの作品のことは、念頭を離れたことがないのに、その内容には立ち入ることが殆んどなかった。
 森さんと現実の月山のかかわりあいも、いくらかは私は知っている。しかし月山で紙の蚊帳をこさえて暮していたということとか、ある日雪の中を、私の友人が訪ねて行ったということや、雪の中で危うく死に損ったというようなことであって、それもこうして数行で書いてそれで終りといった程度のことである。勿論その友人の話はこの小説のようではない。山のことを書いた作品のいくつかは、前に読んだことがある。だがそのときも「月山」がこういうふうに森さんの中に住んでいたとは、正直いって想像できなかった。つまり私のいいたいことは、「月山」の世界は森さんの真言秘密の世界で、容易には語ることができるものではなかったということである。それはよほど心して語らないと人には通じない。ありふれたこととしてあるいは奇矯なこととしてそっぽをむくかもしれない。秘密好きというようなこととは違うのであろう。(こういうことは、私は「月山」を読んでほんとうに知るに至った)
 誰しも作者というものは、容易には語るに至らぬものを奥深く秘めているものである。そしていよいよ重い筆を執りあげてから作者もまたようやく自分の中の具体的な秘密の存在を知りはじめるものである。森さんの場合も、当初に計画されていたものと長さも違えば、ことによっては語り方もいくぶん違う結果になったようである。そういうことも、どの作者にも大体のところ、共通するものである。
 しかし私がいわんとすることは、そういうこととは、無関係とはいわないが、もう少し別のことである。少くとも「月山」においては、その世界は、吟遊詩人が音楽を奏でながら語りはじめるように、山伏が数珠をこすりながら、呪文や来歴を述べるように語られることではじめられねばならない性質の世界なのである。勿論美しい文章でなければならないが、そこには論理が語られていなければならない。もし美しいとすれば、根本には論理であることによって美しいのである。私たちの先人は、古今を問わず、その方法をとってきたらしい。たとえば「平家物語」の冒頭を考えてみると、そうなっている。作者の心構えであるだけではなくて、きく者の心構えであり、そこにきこえる音楽は、厳しいものを必ずしも厳しいと思わせまいとする、礼儀の役割を果している。「月山」つまり月の山が死の山であるということをいうとき、円かな山という心情とも共通するものなのである、と思う。
 せっぱつまると、意外に私たちは、色々なものをかなぐりすてて論理へ一直線に走る。何故人は死ぬのだ。それは……。何故、それは、してみると、……そういう態度や切なる要求が一つの山を月山と呼び死の山と呼ばせ、一つの山を鳥海山、日の山と呼ばせる。そして死の山から流れる水が庄内平野を潤おす生をあたえる……。読者はそこで溢れるように沢山のことを一きょにあたえられる。
 そういうことを露払いのようにうたいあげて、「私」は夢の世界に入るかのように月山の中へバスに乗って行く。バスに? と人はいうかもしれない。違いますね、バスに乗って行くことこそが大切だ、と作者はいうだろう。俗世間の運び屋だからだ。
 生の根元でもあるから死はまた夢である。死んで生きているものは夢であるからである。ほんとうは、こういういい方をしてはいけない。人々は「死んで生きて」というようなふうには思いもしないし、生きもしない。「未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん」という論語の教えのように考えたり生きたりするのに違いない。それだから、その通りに、「私」は夢にあこがれるが如くに月山にあこがれて、忽ち生の只中の山ふところに入りこむ。こういう「私」は、その山ふところの寺を出ようか出まいか、いくつかの迷い、たとえば、女と一夜のチギリを結ぶか結ぶまいかというようなこととか、果して自分はどのように思われているのか、というようなことには心を煩わすけれども、その他は専ら村人に向って問いかけ、うなずく。つまり、お話を承わるという有様である。その理由は「私」は客人であるからだ。恐らく、あのような儀式と共に入りこんだ「私」は、そもそも出しゃばることは許されないのではないか。客人は相手同様用心深くなければならないが、礼儀正しくある必要がある。礼儀は作戦でもあるのだから。竜宮城に案内された男は歓待をうけ、玉手箱を貰って帰る。玉手箱をあけなくとも、チギリを結んだものは、白髪になる運命にあったのであろう。女とチギリを結ばずとも、リップ・ヴァン・ウインクルは山の中で客として酒をのまされて眠っただけで、村へ戻ってきたとき、老人になっていた。月の山へ行って生きて帰らねばならない。黄泉の国から生き返った伊邪那岐命のように。
 内ぶところに入ったときに月山が彼方に聳えるように、月山を忘れているときに、不意に月山が姿を見せるように、生の只中にいるとき、死をほとんど忘れているようなことそのことが、即死である(全くその裏返しも同じことである。そして死でないものが、どうして生であろうか、ということにもつながっている。このことの方が根本であるようにも思える)ということは、この作品の大きな組立てであるばかりではない。実はその組立ての連続がこの作品だ、というふうになっている。(連続というのは誤解の元だが、一応そうしておこう)もしそうでなければ、どうして私たちの姿というものを、一個の作者が示すことが出来るであろうか、というふうになっているのである。
 およそ文体というものは、たぶん部分と全体とがその態度を同じくしているということであって、このことは珍らしいことでもない。ところがその部分の示す内容と、全体の示す内容とが、同じように人々の存在にかかわる論理という質そのまま、まとめて含んでいるということは実に稀有のことである。
 じっさいは人々はどの人も存在しているという意味でレッキとした人間であるというのだから、生老病死から免がれることが出来ないことでも分るように論理を内に秘めている。そして人自身は、人があることは、それぞれ物語を語ってみせ、存在の論理さえも説いてみせることはみせるけれども、ここでいうところの部分というものではない。部分の破片に過ぎない。作者はそう思っているように思われる。お前は何をクダを巻いているのか、と思う人があるかもしれない。そこで例をあげて説明するつもりであるが、ここで一つその前にいっておいた方がいいことがある。
 私は前に「平家物語」などを例にひいたが、漱石の「草枕」のことを考えてみたらどうか。「草枕」がどんなふうに始まるかは誰しも知っていることで、確かあれは俳味というか禅味というか、そういう世界に結着を見出していたようである。ところが晩年に「道草」や「明暗」を書くようになった。そこであの「明暗」という作品をもう一度、「草枕」の書き方に移して、書いたらどうなるか、ということを空想してみる。「明暗」は「生死」と置きかえても根本的には同じことであろう。「明暗」ではエゴイズムを見透す眼がいつも光っている。この小説は重層的に進められていることは、漱石自身も認めているが、光のさす方向が単一である。津田が何かいいお延が何かいう瞬間に忽ち光が息をつかせぬように放たれてくる。天からの眼かもしれない。死からの眼かもしれない。彼は午前中に「明暗」を書き、午後絵筆をとり漢詩を作る。その漢詩で疲れを休めたとも、そうでないともいわれている。私はそのへんのところは、まだ自分の眼でたしかめてないから何ともいえない。午後の漱石が翌日の午前中の漱石の基盤になったとしても、二つの漱石というものはあったように思える。そういうひとりよがりの前提に立ってのうえであるが、そうするとこの二つが明暗ともとれないことはない。「明暗」という作品ではなくて、この二つの漱石の内容が、ひょっとしたら、人間存在そのものではないか。そうすると光りに当てられて浮んだ痛々しいエゴイズムというものは、その断片をとってみたとき、破片であって、全き構造をなしてはいない。部分というものは午後や夜の漱石と午前の漱石との一日をさす。私は不埒なことをいっているようにとれるかもしれないが、漱石の名をあげたのは、「月山」という小説がひどく大ざっばにいったとき、「草枕」に似ているが、「明暗」をへた「草枕」だということをいいたいからである。
「月山」の中で、全休(或は部分ともいえるが)というのは、その地形の動きであったり四季のうつりかわりであったり、吹雪であったり、紅葉であったり、地獄のように見える夕焼であったりする。そこに出入りするカラス(ドブロク買い)や乞食(行商人)や、富山(薬売り)や、燕や小川のせせらぎや、遠く見えるバスのかかわる世界であったりする。たった一つ落ちたままになっている橋にかかわるものであったりする。勿論月山や鳥海山や十王峠や、大網や、肘折温泉のかかわるものをふくめてのことだ。それらは、ここに登場する「私」のまわりの人々の存在や仕方や変転とどこか同じような仕組みをもっている。吹雪は必ずしも悲しいものではなく、それは仲間ともなる。吹雪くときにかえって人々は働く。(そしてその奥にあるものが円かな月山である)夕焼が地獄とうつったのは、「私」が天の虫たる夢を見ていたからだったのかもしれない。そうならば、地獄と見えなければならない。「私」が別世界に入ってくると、自然も人も色々なまやかしのような相貌を呈しはじめる。しかし「私」は、なるべく受け入れ、様子を見て行こうと思っている。だんだんと分るが、まやかしというのは生きている姿の現われだということで、私もまた税務署員だと思われていたりする。ここでもう一度はっきりこの作品の特徴をいっておかなくてはならないのは、自然もまた生きていて人間の諸相の仕組みと同じものをもっているという実に確固とした頑固ともいえる考えに立っていることである。
 聳える林檎の木の小さな石のような実、寺にとんできてくっつき悪臭を放つ無数のカメ虫。作者はそこに立脚して一貫して作品を創造しているわけであるが、実は登場人物はまたみんなそのことを心得て暮している。訪れてくる行商人さえも、そのことを口にするほどである。(この心得ているということについては、私たちのまわりのあらゆる人たちは自分の住む世界においては、一応は心得ているものだ。行商人のように心得ていることで仲間に入った顔もするし、そのことが、また煙ったがられたりする理由にもなるものだ)自然とはいえないが寺男のじさまがいつも余念なく削る箸にしたって同じようなものである。食事を口に運ぶばかりでなく不浄のものをはさみとる道具であるし、浄めの道具でもあるように思える。これはまた、お布施の礼として配るものでもある。箸そのものがそのようにしてじさまの手で作られている。それは友人の源助の口から分らされたり、じさま自身の口から語られる身の上ともつながりがあるといったぐあいである。こういうふうに書いてくると凡てにわたることなのでキリがないのである。作者の興味、しくみ、そういう物も自然も人物も、それとしての生の論理をもっているし、また物語さえもっている。ところが私の前で彼等は物語を忘れるかの如く、消す如く転化する如く見えている。それが彼等の生きている姿である。こういうときに、彼等の結びつき合う世界は、この別世界の中で一つの積極的な組立てを見せる。「私」をほんとうに刺戟するのは、そういう場合だ。勿論作者は「私」をそういう刺戟に立ち会わせ、生甲斐を感じさせ、ことによったら、別世界へ来た真の目的であることをあかしているのかもしれない、と思わせるのである。
 セロフアン菊、モンペをはいた後家の女。この女と「私」とのあでやかなふれあい、遠慮がちで大胆で、許されているようで許されていない事実。事が起りそうで起らず、すべて無事であって、色が漂う有様。老人たちのうたう御詠歌とみだらな酒宴との対比。老人がかえってみだらであり、若さとまちがうと見えて、それが老いの証拠であり、みずからの酒宴であるように見えて、「私」へのサービスであり、サービスであることによって彼らが満足し、しかも後家女を「私」に結びつける企てのようにさえ見える。いや企てであるわけではない。後家とちぎることは、後家への功徳であり、その一個の女に対してだけでなく一般人間に対しても功徳であるかもしれない、と「私」はよく寺の住職がそうするということを弁解の言葉にもする。その後家に豈はからんや男がいたのであった。男は酒宴のときにもいたダミ声の先達で、男は「私」の前で笑っていた。彼女がこの先達に打擲されている音がきこえる。ところが男は源肋じさまの家であったか、ニセ物の応挙の絵などを前にして、何事もないかの如くしたり顔で諸国の経験談をしたりする。ニセ物は寺の先代の和尚からつかませられたのだが、ニセ物であっても、それはそれで……このように一つの貌は別の貌であることによってそこに存在しているというぐあいに、変転きわまりない。勿論逆説というようなものではなくて、清らかなものは俗なものとのつながりや裏打ちを離れるわけに行かないどころか、俗なものであるが故にこそ清と現われたり、清であることは俗を呼び起し、俗の力を借りずに清は清たる所以を満足に充すことも出来ない。こうして登場人物は自然と同じように作者の力によって安穏な物語の道を進むことを許されずに、実に強力に作者の意志によって多忙に作者の仕組みに参加して、そうして作者の愛情の恵みを受けている。 実に強力なる組立てだからこそ、ともいえるかもしれないが、あるいはこの組立てそのものの内容がしからしむるのかもしれないが、物いわぬ自然が謙虚な態度でおのずから言うようなぐあいにして、人々の相貌はたとえ一見彼らが狡猾であるとしても、それはそれで、おのずから現われるようにして現われる必要がある。そうなるためには、作者は「私」という人物が見聞する形をとることが賢明であったに違いない。つまり発見の形だ。一つの新しい論理に包みこみ、いかなることも日常と見ることからくる色つやという内容の発見。
 ここで私は家人が、深沢七郎「楢山節考」に似ているが……といった。ああ、そうか、深沢七郎さんね、そういえば誰かそんなことをいっていると耳にきこえてきた。「だから、あれは恐ろしい物語なのだよ」「でも『月山』も美しいが空恐ろしいわねえ」といった。「だから、恐ろしさの意味も違うのだね。ああいう『楢山節考』のような物語は、あれはあれで恐ろしい。それにあれは傑作だろう。だが、『楢山節考』の物語は『月山』ではただの破片なのだ。そういうつもりで書かれているのが『月山』だ」
 夢の扉をあけるようにしてバスに乗って別世界に入った「私」は夢さめるようにして友人と市井へ戻る。現に別世界は彼が友人と戻って行く市井よりも市井的なものに変化しょうとしている。源助じさまの花畑であった場所が遠くに見える。彼は牝牛に種つけする冷凍の種を求めて雪の中へ出て行った。じさまが四、五日たっても帰らねば、探しに行くという言葉は語られているが、生きていたことが噂の中でそっと語られ、遠方の都からやってきた友人(遠方などというものであろうか)によって眼ざめさせられる。源助は月山に召されたように見える。もともと生を産み出す種つけの目的で出発した元気ものの老人は、死の中に姿を没したかに見えた。それは見えただけである。何も書かれていないが、彼は思い出の中に生きる人物に違いない。そうは行くまい。たとえ残っても所詮それはいわゆる物語に過ぎない。こうしてじさまも作者の語る物語となる。それにしても源助じさまと、そして、あえていえば、後家の女は、作者のこの「別世界」にあたえたハナムケのように思われる。勿論直接的にという意味ではあるが。「未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん」と、この二人は呟いているようでもある。
 部分と全体という言葉をつかって私はこの文章を進めてきた。部分が、その背後にある全体をあかすという意味においてである。私自身もそういうことを口に出していったことは一度もなかったとはいわないが、正直いうと、これは森敦さんが私と話しているときに口にした言葉だ。私の小説にふれてだったか、それとも森さん自身の過去の小説についてだったか、その両方であろう。私はそこで、その言葉をつかって、私ふうに解釈して、一応の分析の糸口を示してみた。これはその「死者の眼」で森さんのいう内部外部という言葉をつかって説明した方がよかったかもしれない。こういう言葉をつかうと眉唾と見る人がいないとも限らない。そういう人はもう一度、「月山」を読み直して貰いたい。
 それはそれとして、私は「月山」は以上のような分析など要せず、美しくて空恐ろしいものを、そして墨絵のようなもの、その奥からきこえてくる親しみのあるそして恐ろしい声(それは吹雪の音なのか、紅案の色合いから来るものとも無関係ではないが)をきけば、それで十分ではないかとも思わぬではない。
 第一、この作品は何故だか、分析を拒否するところがある。強力な論理と意志によって貫かれていながら、分析を拒否するというように感じられる。私はここで、森敦さんが昔から一、二度、口にしたことのある「幽玄の論理」ということを思い出した。一、二度でしかないというのは、あまりにも森さんがひたすら追究してきたものであるから、それに私とは直接つながりのないことだからというので、それに私の誤解を招くことを恐れたり、そうだったら阿呆らしいと思い、あまり度々は口の端に上せることがなかったのであろうか。だが、お前の世界と自分の世界と違い得るものであろうか。少くとも自分の論理は、説得力をもち得ないだろうか。小島のやつを包み含んでしまうことは出来ないだろうか。そのようにも思ったことがあるかもしれない。「幽玄の論理だよ」と森さんはいうであろう。幽玄の世界を書くのではなくて、「幽玄の論理」によって書くのだ。幽玄化するのだ、と。そして思うに日夜、森羅万象、諸事万端も論理化し組立てに置き戻そうとする彼は、(この態度がどうして変っている、などといえよう)「幽玄の論理」の中味を肥やし、何物にも堪えられるように旅に出させたようでもある。しかしこの論理は度々危険にさらされそうになった。いったい市井にあることが旅ではないのかと。そしてこの論理は生命を得た。それはそれとして先きほどから「月山」を一口で、幽玄の世界を求めて別世界にあこがれ入った話といってしまえば、それですむことであった、とむしろ私は後悔に似たものさえ感じはじめている。まあ、しかし、それですまぬ人は、私の説明がいくらか役に立つかもしれない。
 最後に、この作品は、一年間のベスト何とか、五年間の、十年間のベスト何とかいうような枠から外れた、いわば、劃期的なところをもったものだ。二十年、三十年、五十年、何百年(読者よ、笑うなかれ)というふうに、たとえば過去にレインジをのばしてそういう長い期間の中に置くことを許されるのにふさわしいものを本質的にもったもののように思える。勿論、未来に向ってでも同じことである。二十年、三十年によっては変らぬ、という人間の姿を根抵に考えるという姿勢だからである。「月山」がほかの山ではなくて月山であることが果して今後、直接的に花鳥風月であることが果して今後……というようなことを考えさせるかもしれない。それに類したさまざまのことは、つきまとうのが当り前で、それがないものなら、何も作者は「月山」を書く必要もなかったとさえいえる。何しろ「月山」は、もともとあらゆる可能性を含むはずのものなのだから。
 したがって今後も山は作品の中で出現するだろうが、月山でないこともあろうし、山は全く出てこないかもしれない。そうしてそれはそれでほほえましく優しい物語であるかもしれない。といっても、その物語はいわゆる物語を消す物語と思われる。どんなことも日常と見なすような、強い意志と愛情に貫かれたものだろう、と思う。
(「季刊藝術」第二十七号より転載)
 
↑ページトップ
書評・文芸時評一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。