017 森 敦著 月山

倫理的な沈黙と放心の表情
何ものも支配しないひたすら屈従する眼
桶谷 秀昭
出典:日本読書新聞 昭和49年4月15日(月)
 昨年暮に「季刊芸術」誌上で「月山」を読み、某紙に感想を書いたことがある。そのとき私は、藤枝静男、中里恒子、古山高麗雄の諸氏とともに森氏の文学を、六十歳前後の年齢という一種異様な経験から生まれた文学で、これらは耳で聴く作品だというようなことを書いた。
 森敦をはじめて読んだそのときの印象と、芥川賞作家となり最初の単行本として、この「月山」を読み返したいまの印象と思い合わせて、この二つの印象の間にはさまっているいろんな文壇的騒音にわずらわされまいとすれば、森氏はやはり「月山」一作をもって記憶されてよい作家だといいたい。
 私は今年になって、「天沼」を読み、「鴎」を読み、さらに氏の四十年前の処女作という「酩酊船」も読んだ。そしてもう一度「月山」を読んだわけだが、「月山」の作品としての密度の高さは否定しようがない。否定しよがない、なぜそんな言い方をするかといえば、いまのところ森氏は「月山」を抜く作品をその後書いていない。そればかりか、「月山」の自己模倣に堕しかねないそんなところで仕事をしていると思われるからである。
 むかし小説の神様と言われた作家に可愛がられた一人の文学青年が、小説の神様の推薦で幸運と一見思われる文壇的出発をし、しかしその後、どういう事情あってか筆を絶ち、四十年後に、或る機縁で再び小説を書いた。それはたいへん気むずかしい小説で、そこに垣間みられる芸術家気質は、この一作で再び沈黙を強いられることを予想させる、そんな印象を、初めて読んだとき「月山」から受けた。
 だが世間は黙殺にかわる受賞という栄誉をもって遇した。森氏もそれに愛想よく応え、処女作の頃を回想して、「わたしは、ダンディズムとデカダンズム(こんな言葉はない)を標榜しており、それが、今日にもいたって、わたしの論理の根底をなしている」というような、ちょっと箸にも棒にもかからぬようなことまで書いている。もっともこんなことは、先に言った文壇的騒音の類で、どうでもいいことだと言って言えなくはない。
 ただ私はこんな取るに足らぬ文章の切れはしから、この作家のもう一つの顔を垣間みたという印象を消すことができない。たとえば「鴎」はこのもう一つの氏の顔が「月山」よりは遥かに前面に出ている小説である。そして「月山」では、それは雪にとざされた山里に春の気配がおとずれて、「わたし」の友人が破れ寺へたずねて来て、山を下ろうとする終りの部分にあらわれる作者の顔である。それは、「月山」の大部分を占める世界、
 《……吹きもまたわたしの仲間のような親しさを覚えるのです。どうやら今夜も月夜
 のようです。わたしが独鈷ノ山で見たこれらの渓谷をつくる山々や彼方に聳えて
 臥した牛のように横たわる月山も、おぼろげながら吹きの上に銀燻しに浮き立って
 いるであろう。そんなことを思っていると、わたし自身が吹きとともに吹いて来て、吹
 いて行くような気もすれば、もはやひとつの天地ともいうべき広大な山ふところが、
 僅か八畳にも満たぬこの蚊帳の中にあるような気もするのですが……》
といったような寂寥の中で黙している一つの沈痛な顔と、いちじるしい対照をかたちづくっている。私が惹かれたのは、もちろんこの黙している方の作者の顔である。
 森氏のこの二つの顔の対照の中にこそ、氏の四十年の作家──そう言い切れるかどうかはむずかしいが──としての沈黙の意味が隠されているように思われる。そして作者のこの沈痛な顔は、四十年の人望の年齢がきざみつけたものだ。
 たとえばその年齢は、次のような二つの文章のあいだに想像される。
 《「いまひょっと思ひだしたんだ、がヴェ・ソロブィヨフって奴は、面白いことを言って
 ゐるね。彼によれば、太陽を受容する物質的自然の側面から見た世界の全統一、
 反射された光──それが所謂月夜の所動的な女性美なんだ、さうだ。だからして
 月は、見る眼には絶対に支配されない。……つまりなんだ、美の客観性とでも言
 ふか。」》(「酩酊船」)
 この一見ペダンティックなせりふを一人物に語らせたとき、十九歳の森氏は、おそらく無意識に自分の宿命を言い当てていた。見る眼に絶対に支配されない月の「所動的な女性美」とは死の世界の一種絶対的な美であったので、「月山」の姿がどこから見ても同じであり、それが「死者の行くあの世の山」だという四十年後の作品の主題にひきつがれている。
 《すなわち、月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を
 見せず本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないので
 す。》 (「月山」)
 そして森氏はこの作品のエピグラフに、ウラジーミル・ソロヴィヨフのかわりに、論語の言葉を置いた。「未だ生を知らず焉ぞ死を知らん」と。美学的ポーズから倫理的な沈黙への歩みこそ、森氏の再出発の意味である。
 「月山」の魅力は月山という象徴の絵解きに類する遊戯にはない。作者が遠いむかし、ふんだんにまとっていた絶望という美的ポーズの年月をかけた抹殺の果てにあらわれた、放心に近い表情にある。作者のそういう放心は、何ものも支配しようとしない、ひたすら屈従する眼である。
 「月山」はそれが自己模倣もくり返しもきかない眼であることを、作品の孕む沈黙によって雄弁に語っていると思われる。(筆者おけたに・ひであき氏=文芸評論家)
 ▽四六判二〇九頁・七八〇円・河出書房=千代田区神田小川町三の六
 
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