020 「月山」のわたし ****さまざまな旅 森敦
出典:國文学 昭和50年11月25日
 山形県中央部にそびえ立ち、はるか庄内平野を見おろす標高一九八〇メートルの月山は、平野の北部に対峙する鳥海山とならぶ東北地方有数の名山である。その西側は直線的な絶壁をなし、東側は立谷沢川やその支流赤沢川などの侵食による深い峡谷に囲まれて近寄りがたい。北に羽黒山、また側火山としての湯殿山をしたがえて出羽三山と称せられたこの山は、古くから山嶽信仰の盛んな場所、修験者の道場であった。
 長らく庄内平野を転々としてきた「私」にとって、この山はまず死者の行くあの世の山として捉えられる。
   月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそはわたしたちに
  とってまさにあるべき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようと
  せず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみめいたものを感じさせるた
  めかもしれません。
と。しかし、月山はこれにとどまらない。遠く元禄二年六月、芭蕉は奥の細道の旅の途次、松島についで出羽三山に立ち寄り、その印象を、「雲の峰幾つ崩て月の山」「涼しさやほの三か月の羽黒山」「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」などに書きとめた。安東次男は、湯殿山の本体が女陰の形をした自然岩であること、またここが「恋の山」として古来歌の上でとり扱われてきたことなどから、これらの表現にエロティックなイメージを認めている。「私」にとってもそうであった。
   豊沃な庄内平野を生みなす河川は、ほとんどこの月山から出ているといっても
  過言ではありません。(中略) してみれは、庄内平野がこの世の栄えをみることが
  できるのも、まさに死者の行くあの世の山、月山のめぐみによると言わねばならな
  い。
 月山は死の山、あの世の山であると同時に、またエロティシズムと豊饒の山でもあったのだ。
 このような月山へある夏、「私」は、鶴岡市にある本寺の方丈の紹介で赤川ぞいに.バスに乗ってやってくる。出羽三山の奥の院湯殿山にほど近く、深い山ふところにある七五三掛の注連寺、そこに滞在するのである。
 住職によれば、この山と下界(外界でもある)とをわかつところは十王峠で、そこからは庄内平野が一望のもとに見おろせ、また目を上げれば、はるかに生の山、鳥海山がその秀麗な姿を見せるという。十王峠は、あの世とこの世をわかつ「幽明の境」なのである。かつて湯殿詣での人びとが、その行きに帰りに立ち寄り栄えをみせたこの寺や村は、川ぞいのバス道の開通とともにすっかり忘れられ、今はひっそりと静まっている。ささやかな畑仕事、冬場の猟、それにこの世の者にはかくさねばならぬ密造酒、これらが村人のなりわいである。「私」がここに来たときに感じざるをえなかった村の人びとの敵意は、この密造酒ゆえであった、と説明される。がしかし、それはあの世に侵入したこの世の者への敵意と二重写しになる。
 ある日、寺一面に飛来するカメ虫の大群によって、「私」は冬ごもりの季節の到来を知らされる。やがて「雪おろしの雷」がとどろき、ついに雪、さらにそれが「吹き」にかわる。バスほもうやって来ない。時折あの十王峠の雪をかきわけて通って来るヤッコ(乞食)、カラス(密造酒買い)などによって細ぼそと外界とつながるほかは、まったく隔絶した域となってしまう。そもそも、金のはいるあてもなく無一文の「私」は、なんとか食いつなげるであろうというていどの気持と、かねて遠くからのみ眺めていた月山の山ふところを知りたいという願いとがあいまってここにやって来たのである。戻ろうとしても戻るべきところははじめから存在していない。それが雪の到来によって、あの世に閉じ込められてしまったのである。破れ寺のだだっ広い二階に仮寓する「私」は、部屋の中にまで吹き込んでくる雪の寒さに耐えかね、住職の許しを待て古い祈祷書をバラしその和紙をつぎ合わせて八畳ほどの蚊帳をつくる。その中で寝起きしようというわけだ。村人たちが冬のあいだ大根を保存するためのムロ。寺自体も雪囲いの木組に蓆を張って一種のムロになる。あの世である月山、その山ふところ、自然条件による隔絶、雪囲いのムロ、入れ子型に組みたてられたこの異域の構造は、「私」の蚊帳でその絶頂に達する。その中で一冬の眠りを眠ることは、もはや死の国への旅を超えて、母性の胎内への回帰を意味するにほかならない。
 人びとの興味をそそる「私」のまゆのような蚊帳。老婆によれば、かいこはまゆの中で天の夢を見るという。蓆をはずし「私」の蚊帳の中にゆたかに寝入る若い女。まゆは閉ざされた異域であるが、再生の場ともなるのである。蚊帳の中にいつのまにやら冬ごもりするカメ虫がつがいであるのも意味するところは深い。
 冬のきわみのある日源助の家に招かれた「私」は、牛の発情の場に出くわした。源助は牛のタネを求めて雪の中、十王峠を越えて外界へ出て行く。「私」には、源助が月山に大いなる春をもたらすタネを運んでくる人のように想像されるのであった。
 そして春。一冬過ごした反古の蚊帳はよごれきっている。その役割は終ったのだ。「私」とパラレルの関係にあるあの冬ごもりのカメ虫もついに飛び立った。行くところのない「私」はそれでもなお飛び立てない。「私」の旅立ちは、初夏、友人の来訪によってやっとはたされることになる。帰路は当然「幽明の境」である十王峠越えであった。
 こうたどってくると、「月山」のエピグラフ「未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん」──いうまでもなく孔子の確かな決意である──は、逆説的な響きを帯びてこないでもない。「私」はあの世に行き、まゆにこもって長い眠りを眠り、天の夢を夢見て再生する。「私」にとって天の夢が何であったのか、ついにさだかではない。が、一たびの仮りの死と再生の旅。
 あらゆる細部になに一つ見逃すことのできない巧妙なしかけをもった小説「月山」について、語るべきことはなお多くあるが、旅という観点から整理すれは、ほぼ以上のごとくに思われる。
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