023 文芸時評(抜粋) 人間の不安定な情感こもる
    森 敦「鴎」 川村二郎
出典:読売新聞 昭和49年2月22日
 最初に、先日芥川賞を受賞した二人の小説家の作品を取り上けたい。森敦が「鴎」(文芸)「かての花」(群像)「初真桑」(文学界)の三作を、野呂邦暢が「砦の冬」(文学界)を発表している。
 森氏の一時に三作というのは、いかにも精力的に見えるが、いずれも、かつて同人雑誌に発表した作品を改稿したものだという。したがって、受賞作「月山」より本来の着想の時期はさかのぼるものと考えられる。ともかく、どれも「月山」周辺の風土に根ざし、そこから隆起した小さな丘のような短編である。
 中では「鴎」がやや異質で、物語の場面はやはり山形県西部地方だが、そこの日本海に面した田舎町に住む主人公は、孤独な世捨て人ではなく妻といっしょにくらしており、土地の人々と語り合うのではなく訪ねてきた旧友と交歓する。それだけに全体の調子は軽く、明るい地上の平安の絵模様がくりひろげられているかのようである。
 ただその平安は、友人の言葉を引けば「ここでこうしているのも、どこからかこういう世界に来ただけだし、どこに行ったにしても、そこにはそういう世界がある」、「あそこが彼岸なら、ここも彼岸」といった気分の上にあわあわしく浮いているだけで、まばたきすれば消えてしまいそうな感触がある。海岸へ流木を拾いに出た妻が、「鴎になった」といって両手をひろげ、波しぶきに向かって走って行く、すると主人公は、妻が自分を残して本当に鴎になってしまったような気がする、という結びには、ふと高村光太郎の「智恵子抄」の一部を連想させるような不安定な情感がこもっている。
 “存在”を重層的に
 この不安定感におそらく関連する生と死、現実と夢、人間と自然といった対立がすべてかりそめのものでしかないという認識を、直接的に素材と化しているのが、「かての花」と「初真桑」である。前者は弥彦山の石や岩の観察から、石にも生命があり、生きている以上は腐りもする、という種の想念を展開しているが、総じて随想風で、起伏に乏しい。しかし後者は、鳥海山麓(さんろく)のささやかな人間生活の属目(しょくもく)風景を、あっさりと綴(つづ)った文章のようでいて、意外に広い小説の空間をひらいている。それは、今いった生の仮相についての認識が、そのまま表現の原理になっており、一見平凡な日常の情景が、内部からその認識の光に照らされ、変容して行くからである。
 その場合、現実の相がはげしく裏返され、一瞬にして非現実に化するというのではない。ただほんの何ミリか、目に見えぬほど、現実の局面がずれる。すると一見何の奇もない行商人たちの会話は、古い神々の密談のようにきこえだし、老いほけて暗闇の観念も定かでない土地の老婆は、生死の境界を越えた地霊のように見えてくる。その微妙な局面の推移を的確に表現しうるところに、人間という存在のありようを重層的にとらえようとするこの作者の手段がある。
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