026 生の空間としての山々
   無気味な眼光に秘める新しさ
森 敦著 鳥海山    平岡 篤頼
出典:日本読書新聞 昭和49年7月8日
 作家がデビューする契機というのは、いつも世俗的な部分がある。森教が「月山」によって彗星のように登場した時、六十二歳の老人が新人に与えられるはずの芥川賞をさらったという文学外的な事実でセンセーションをまき起したが、インタビュー記事などを読むと、そのはるか以前から、彼の文学は今日見られる成熟に達していたらしいし、実際、そのような<遺賢>としての彼の名前は、すでにわれわれの耳にまで届いていた。
 だから、ここに収められた五つの短篇が「月山」以前の作とはいえ、同人椎誌的水準をはるかに越えた完成度をもっていることには驚かないが、それにしても端倪すペからぎる魁偉な作家が出現したという事実をあらためて認識させられる。
 作家が書きつづける動機には、多少なりとも不純なものが必要であろう。明らかに老熟の成果であるこの完璧さに、その不純なものの余地が残されているかどうか。その答えがどちらでも作品の価値を変えはしないが、それが肯定の答えであることを望みたくなるような何かが、早くも感じられるほどの地点に彼は達しているのである。
 とはいえ、この作家の恐るべき底力は、まさに老熟必ずしも古くないという点にあり、月山についで、同じ出羽の鳥海山(「初真桑」「鴎」)、太平山(「光陰」)、越後の弥彦山(「かての花」)、熊野の大台ヶ原山(「天上の眺め」)と、山のことばかり書きつづけながらも、彼が書いているのは山のことだけではないことが、誰の眼にも明らかになって来る。
 山とは何か。それは遠くからも近くからも眺めることができるものであるが、しかし眺めたいと思った時に必ずしも眺められるものではない。吹浦の町から飛島が見える海と空が晴れ渡っていても、すぐ後ろの鳥海山の頂は青霞に蔽われて見えないことがある。かと思うと、雨霧に煙る車窓の彼方に、不意に夕焼けに染まった鳥海山の頂がはっきり見えたりする。
 そればかりではなく、山は近づけば近づくほどよく見えるというものでもない。頂がたえずそこにあるので、近づいていっても格別姿を変えないが、近づくにしたがってそれは「いつとなく隆起して来る中腹に未然の姿を隠して行く」。
 「その隆起して来る中腹のつくる山容が、またまったく富士に似ているので、これもまさに鳥海山とはいうものの、依然として全容を見る思いをさせられているという意味で、もどきというかだましというか、中腹のつくるそうした山容を眺めさせられているのだし(「初真桑」)
 では、<出羽富士>と呼ばれるその鳥海山の本然の姿はいつどこから挑められるのか。それは可視的な山容という<もどき、だまし>を隠そうとするものと、そのなかから不意に現われて来る怪異なものとが、相争う<まやかし>の間から隙間見られるものなのである。
 山の中にはいったからといって、やはりその山の姿が見えるわけではない。「この渓谷がすでに月山であるのに、月山がなお彼方に月のように見える」(「月山」)のも、山が対象であると同時にひとつの空間だからであって、しかもそれは、少なくともわが国では、「すでに神として、仰いでわたしたちの見得る山そのものの姿を越えた、なにものか」(「かての花」)を宿した空間である。それを見ようとするそのことが、そもそも間違いであって、その空間をみずからの意識の空間とすること、見えるものこそ<もどき、だまし>だと思い知って、見えないものにはるばると思いをいたすことによって、はじめて把握できる対象なのだ。
 そう考える時に、われわれの先の空間もまた、なんとこれらの山々に似て見えることか。生の象徴として山を描いたというよりは、生が描かれた山に似て来るかのようなのである。そこに森敦の無気味な眼光の新しさがあるといっていい。(筆者ひらおか・とくよし氏=文芸評論家)
▽四六判二〇〇頁・七八〇円・河出書房=千代田区神田小川町三の六
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