027 夢の味わいの中に
   真実のかがやき
森 敦「天上の眺め」川村 二郎
出典:読売新聞 夕刊 昭和49年4月25日
 中堅小説家たちの少年物語が、多かれ少なかれ外の世界から落ちる影によってかげらされ、透明度を減じているとすれば、長老の新進作家森教の「天上の眺め」(文芸)には、きわめて透明であると同時に、底知れぬほど深い夢の味わいをたたえた幼年時代があらわれている。この作品も、「月山」の芥川賞受賞以後、各誌に発表された作同様、旧稿に手を加えたものだというが、「月山」以後最も感銘深く読むことのできた森氏の小説というのをためらわない。
 これは一応、三部分から構成されていると見ることができる。第一部は熊野の奥のダム工事現場が舞台で、そこで働く朝鮮人と地元の住民とのあいだにいざこざが起きるのを、工事事務所に勤める「わたし」が調停する話。「わたし」は幼いころ朝鮮に住んでいたことがあり、そのせいか、朝鮮人との話し合いもすんなりと運ぶ。その話し合いのうちに、朝鮮の凧(たこ)上げのことが思いだされ、次は朝鮮凧の話になり、大陸にも日本にも見られない独特なこの凧の材料、作り方、上げ方などが、微に入り細をうがって説明される。少年向き科学読み物にでもふさわしいようなこの説明を中間部として、最後は「わたし」が子供の時朝鮮の町で見た、ふしぎに美しい紫の凧の思い出が語られる。どこで上げているのか知りたくて、凧糸をたよりにたずねて行くと、広い西洋風の庭園があり、そのまんなかで三人の老人が黙って立ったまま、凧を上げているのだった。この光景が「わたし」にとっては天上の世界のことであり、「天上の眺め」なのである。
 淡い水彩で描かれた童話の風景だが、画面の前景の明るさと対照的に、その背景は、いくらでもその中へ想像を深めて行くことができるほどに、暗くひろがっている。天上の眺めというなら、最初の、熊野の奥の朝鮮人たちの生活も、現世から遠く離れた仙境のように眺められていて、渡り鳥をさながらに異郷を転々とする彼らの運命の悲しさを考えれば、その眺め方はロマンティックにのどかにすぎる、と感じられるかもしれない。しかし実は、彼らの運命への共感が、単純な感傷的同情などの及ばぬほどに強いからこそ、その共感の表現は、かえって明るくのどかになるのだと思う。凧についての無邪気な熱心な説明も、幼年の日の夢のような風景も、この共感に裏打ちされる時、もはや単なる無邪気さでもはかない夢でもありえない。それは地上の現実の重さを知りつくしている心と目がとらえた天上の風景なのであり、だからこそ、その風景の透明なかがやきは人生の真実を反映しているのである。
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