042 詩魂の筆がさえる
  森 敦著  私家版 聊斎志異
出典:山陽新聞 昭和54年4月28日(土)
 本書は、清初の古典とじて名高い蒲松齢原作の「聊斎志異」を、著者の筆によって翻案したものである。蒲松齢は明末(一六四〇年)に生まれ、十九歳で、科挙の予備試験の県試、府試、院試を首席で合格したが、本試験の第一段階である郷試には失敗し、その後何度受験しても合格せず、七十六歳で世を去るまで、科挙に未練を残したといわれている。
 本書に採録された十九編も、大半の主人公は「生員」と称する科挙受験の資格者で、彼らがよう(妖)異の人間たちと交流する物語である。
 若者は、蒲松齢の気持ちを推察して「わたしにはその気概があるどころか官職に執着し、しかも鬢に白髪を見てもなお合格することができず、わたしを信じ励ましてくれた妻も諌めて断念を進めるに至りました。さりとて、わたしはしばらく詩文を捨てて、俗物になってくれといった心あたたかい友人の言葉にもかかわらず、詩文に耽りはしたもののいたずらに卑俗怪異の聞き書きを綴るのみ」(そのかおりにも)と補筆している。
 本書に採集された十九の物語は、「想い幽かに」「人のありて」「若き日に」「夢の結び」「行方も知れず」「浮き寝の宿」─「この人もまた」「石を愛して」「幻なりや」「花の寺」「そのかおりにも」「笑いのこぼるるがごとく」といった調子の題がつけられ、一つ一つのそう話が和漢混交ふうの文体で語られる。
 冒頭の「想い幽かに」(原題「公孫九娘」)は、明清交代の動乱で命を落とした者の荒れ塚に紙銭を供えて、僧りょの部屋に泊まった生員が、処刑されたはずの詩文の友に導かれてあの世へ行き、あの世の九娘という美女と結ばれる話だし、最後の「笑いのこぼるるがごとく」(原題「嬰寧」)は野遊びに出た生員が梅花を持つ美しい娘と出会って恋患いとなり、捜し求めて結婚したその嬰寧という娘は、キツネの子だったという話である。
 これらのよう怪物語を、著者は装飾を排した直叙体で語っていく。なかでも筆がさえるのは、花の精との交情をてん綿と描いた「花の寺」「そのかおりにも」で、著者が芥川賞受賞作「月山」で見せたように、リアルな文体でありながら神韻ひょうびょうたる世界へづかづかと入っていく筆づかいの技は、永年つちかわれた強じんな詩魂によって支えられていることを感じさせる。
 「花の寺」(原盤「黄英」)は、かつて太宰治が「清貧譚」と題する好短編に仕立てているので、比較して読むこともー興かもしれない。=潮出版社、二千八百円。
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