043 「自分の聊齋」の世界繰り広げる
  森 敦著 私家版 聊齋志異 (慶応大学教授 村松 暎)
出典:公明新聞 昭和54年4月30日(月)
中国には「志怪」小説の伝統が古くからあり、従って作品もおびただしい数にのぼるが、面白さという点では「聊齋志異」にとどめをさす。作者は清朝初期の人、蒲松齢である。その面白さは人を魅了するものを持っており、さればこそ「聊齋癖」という言葉も生まれたわけだ。
「癖」というのは、何かにとり憑かれてノメリこむようなことを言う。この『私家版聊齋志異』の作者の森敦氏も自ら「聊齋癖の尤なる者の一人」だと言っている。
『聊齋志異』には四百篇あまりの短篇がおさめられているが、同じく短篇といっても、「こういう不思議なことがある」といった程度の、筋もない極く短いものもあり、首尾一貫した筋のある、ある程度の長さを持ったものもある。面白いのは、主として後者、筋のあるものである。
 では、そういう物語の「面白さ」とは何かということになる。『聊齋志異』には、幽霊、狐、花の精から鳥などに至る種々様々な女性が登場して、人間の男と恋をする。その女性がみな至って気だでがよく、またいずれもすこぶるつきの美女ばかりで、男はそれが人間ではないと知っても、恋はさめるどころか、ますます離れられなくなるばかりである。こうした異類との接觸が命をちぢめるということを知ってさえ、それを承知の上で、恋の深淵にのめりこんで行く。日常の世界を超えた次元の恋であり、女はこの世のものでないだけに、妖しい美しさにかがやいている。時として、人間の女も登場するが、いずれも手に負えないジャジャ馬で、夫をしいたげる悪妻である。作者蒲松齢自身が人の世に絶望し、理想を次元の異る世界に求めたのであろう。要するに『聊齋志異』の面白さ、魅力は、この次元を異にした妖美な恋の世界の展開にあるといってよい。
 そして『聊齋』の叙述は至って簡潔である。この簡潔な叙述というのは、志怪小説の正統の手法とされていたのであって、われわれは『聊齋』の叙述を簡潔だと感ずるが、伝統的な志怪小説の叙述にくらべると、これでも作為が目立ちすぎるとして、これを『聊齋』の欠点として指摘した人もあるくらいである。
 それはともかくとして『聊齋』の叙述が簡潔だということは、それを読む人に、さらに自分のイメージを展開する余地を残しているということでもある。『聊齋』に魅せられた作家が「自分の聊齋」の世界をくり広げてみたくなるゆえんであろう。芥川や太宰の作品には『聊齋』に材を取ったものがある。森敦氏が「私家版」を執筆したくなったのも、同様の理由であろう。森氏は原作よりも、もっとやわらかな雰囲気で全体をつつんでいる。
『聊齋』の原作は四百余篇あり、翻訳には何がしかの固さがあるので、とっつきにくいが、この「私家版」で眼を開かれて、原作に進む読者がおれば、森氏としても本望であろう。
(潮出版社二八〇〇円)
↑ページトップ
書評・文芸時評一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。