054 考え直す数学の概念
出典:毎日新聞 昭和59年12月10日(月)
 今秋出版された森敦著『意味の変容』(筑摩書房)は、中心、円周、内部、外部、近傍など、およそ抽象約な数学の概念を文学的なテーマの展開に用いているが、それらがリアルに意味づけられていることに驚かされる。
 なかでも、境界の概念に関して、内部と外部を分ける境界そのものは外部に属し、したがって、内部は密蔽されてはいるものの、境界がそれに属さぬがゆえに開いており無限であると論じられ、この論理が巧みに駆使されている。
 ところで、境界とは数学の世界では明確な概念であるが、現実界には存在しない。天と地を分ける境界そのものは存在しないし、「睡蓮」の画家モネが描こうとした水面とは、水の層と空気の層を分かつとはいっても、物理的実体としての存在ではない。
 しかし、現実界に存在せぬものが言葉により概念化され、それが現実を把握するために効果を発揮することは少なくない。『意味の変容』の境界の概念はその好例である。
 残念ながら実際には、言葉の世界でのみイメージが豊かに広がり、現実は空疎なままに放置されることも多く、人づきあいと同様、「言葉づきあい」も難しい。
 年が明ければ「昭和六十年代」に入るが、これを単に言葉の醸す区切りでなく、実のある区切りとしうるか否かが、問題である。(C)
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