060 同一平面上の表と裏
   ロココ現場は博物誌的  種村 季弘(評論家)
出典:朝日新聞 昭和61年6月24日
消し飛ぶ西高東低
 かりそめに提起しておいた、ロココ的気象における西高東低現象はしかし、森敦『マンダラ紀行』(筑摩書房)のような作品を前にすると、冗談としてもけしとんでしまうかもしれない。『意味の変容』の作者は、旧著の方法序説をここで空海の跡を踏む旅の実地に適用してみせる。内部としての胎蔵界は同一平面上を滑って外部としての金剛界にいたる。「更に手繰って行けば金剛界はそのまま同一平面を滑ってふたたび胎蔵界になるであろう。これが完結しながら無限であり、無限でありながら完結する二次元の仏教空間である」
 このメービウスの帯のトポロジー空間における運動が、おのずと京都東寺から高野山へ、高野山から四国八十八カ所のお遍路めぐりへと人を導き出し、また過去における出羽三山の金胎両界マンダラ風景の記憶を誘い出す。
 同時にしかし、テレビ局のシナリオほ基づいて企画されたお仕着せの旅は、途上たとえば慢性下痢症状のための思わぬ失禁(物質的洗身)のような偶発事に遭遇しながらも、かえってそれゆえに、いたるところに五十六億七千万年後に本然の姿を示現すべくひそんでいる8の字のサインを読み解いてあるく秘儀参入の旅と化してゆく。
 ロココ空間における表と裏、西国と東国、十八世紀と近代、サロン(桃源)と高貴なる野蛮人との一見したところの対立も、これを右のトポロジー空間に代入してみるなら、相互にどこまでも続く表としての裏、裏としての表という新たなパースペクティヴの下に立ちあらわれるはずである。しどけなく独居する蕪村の求心性は、あられもなく発散する江戸の山師たちの遠心性に同一平面上でつながり、優雅なモーツァルトを迎える自意識の劇は、それみずからの徹底の上に自意識による愚者喜劇へと変容する。内面もまたひたすら職人的に(情念的にではなく)造形されるなら、一個の蒙昧(もうまい)なオブジェとして喜劇の舞台にころがり出しかねないだろう。
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