062 森 敦著 「マンダラ紀行」筑摩書房刊
  マンダラ世界への参入による「存在の変容」 松澤正博
出典:仏教タイムス 昭和61年7月15・25日合併号
「従来のマンダラ諸論とは隔絶したトポロジカルな思念の前に──」と本書の腰巻にあったが、それはないとおもう。当然のことながら、本書に示されたマンダラ理論は、たしかにすぐれた理論であるが、その思念のありようは、従来のものと隔絶されてはいない。
 本書で指摘されている金胎(金剛界、胎蔵界)両界マンダラの相互関係や、マンダラの三次元性などは、マンダラ本来の用途にしたがって、わずかでもじっさいに行法をおこなえば、それぞれの機根に応じて、それなりにわかることがらである。「トポロジカルな思念」を誘発させ、そのことに気づかせること。それがマンダラ本来の役割なのだから。
 また行に入らずとも、チベットのアルチ寺などには、じっさいに立体マンダラがあり、京の都もまた、マンダラ的コスモロジーによってつくられている等、マンダラにまつわるこの種の話は、程度の差はともかく、いろいろとある。
 本書は『意味の変容』いらい(だとおもうのですが)取り組んでおられる森教氏の世界認識がすばらしく圧巻であるわけで、いくら「トポロジカルな思念」をこらして、両界マンダラ図の問いかけを解いたとしても、そのことだけで「真言密教の秘奥」を解くことにはならない。密教といういじょう、あくまで行入が認識と体験の軸である。
 では、行入がないいじょう、仏教の救いはないかというと、そうではない。
「妙秀尼は眼を患われて絵筆がとれなくなった。人、あるいは言うであろう。観音を信じて患った眼が治ってこそ利益というものではないか、と。しかし、わたしはそうは思わない。妙秀尼は眼を患つたのではない。観音だけしかみなくなったのである」
 と、本書でも描かれているごとく、「観音しかみえなくなった」と(観察者の)認識が変容することによって、仏にすくいとられてゆく済いというものがある。すなわち、現実にはさまざまな層があって、主体の認識とかかわる「現実」を取り戻すことにより(関係を結びなおす=レリジョン)、表層の「現実」には何の変化がなくとも(眼が治らなくとも)、認識主体は治癒されていくのである。そしてそれは、本書でいうと、「いかなる仏のいますかも知るまいが、ただそのいますことを信じている。それでみなお遍路さんたちは救われていく」という箇所と響きあって、どくとくの日本の宗教を育ててきた。森敦氏は、そこをしっかりとみすえ、うむをいわせぬ安定感のうえに、バランスよくマンダラ図の問いかけを開示しておられる。
 では、本書の基礎に「行」はなかったのかというと、これもそうではない。本書においては紀行こそが行であり、裟婆マンダラこそが、じつは森敦氏において参入され、秘奥を開示した、もうひとつの秘されたマンダラなのだ。
 だからといって、納得ばかりはしていられない。仏教全体への問いかけは、いま、深刻である。認識主体の「意味の変容」による済いという構造は、社会を対象化して考える必要性を喪わせてきた。そうして二千数百年たったいま、アジア、アフリカ、中南米におけるローマ・カトリック、中近東、北アフリカにおけるイスラーム、全世界にまたがるユダヤというセム語族の三つの宗教に対して、仏教は──所与の現実に対してあまりにも脆弱である。
 ─まつざわ・まさひろ/「アーガマ」編集長
(一五六頁・価一、二〇〇円)
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