076 彼岸をめざす人間群像
   森 敦著 「われ逝くもののごとく」 神原孝史(作家)
出典:赤旗 昭和62年7月13日(月)
 表紙の梵語文字は「ばん」すなわち大日如来のこと。一見阿字。五逆消滅。真言得果。即身成仏と勝又俊教氏の『お教・真言宗』にあります。
 一九八四年からまる三年間にわたって『群像』に連載されたものだが、こんど大幅に書直して講談社から出版された七百ページにおよぶたいぶの長篇小説です。物語の冒頭に出てくる団欒(だんらん)図はさながらこの世の極楽です。主人公の少女サキの家は海辺の小さな板葺き屋根の家ですが、お人好しのじさま、何をいわれてもコロコロ笑うばかりのばさまがいて、サキのだだ(父親)は漁の手伝いをし、アブれれば日傭に出る。がが(母親)は魚をブリキの缶に入れて行商する働き者です。暮らしはまずしい一家ですが、他人に親切で、互いにいたわりあい、ゆずりあって暮す姿は何ものにもかえがたい豊かさです。
 が、突如としてこの一家に不幸が襲いかかります。それは戦争です。だだは兵隊にとられて戦死してしまいます。この日から、聖少女サキの彷徨がはじまるのですが、不思議なことに、この少女の現われるところ、たちまち囲りの人々の日頃の醜悪な心が洗われて清浄になります。救われるのです。逝(ゆ)くもののごとくなるのです。逝くとは、般若心経の「逝く」で悟の境地のことです。悟ることは難しいといわれていますが、誰でも悟れることを、著者はしらせてくれます。それは人の不幸にならない行ないをすることだというのです。むろん戦争に反対することも含まれるでしょう。
 読みにくい、という声もありますが、周囲の物象になぞらえてストーリイを追わなければ、たのしく読めます。すなわち人間曼陀羅図を著者は描いているからです。登場人物はそれぞれ醜さをもっていますが、まごころもまた内包しています。そして誰もが彼岸を目指しているのです。わたしは新しい小説界を見せつけられて、してやられたという感想をもたざるを得ませんでした。箱の絵も、本の表紙文字も、意味をもっている面白い本で、購読をおすすめします。 (講談社 四六判 三二〇〇円)
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