082 地(じ)と絵模様の変幻
   森 敦 『われ逝くもののごとく』
川村二郎
出典:群像  昭和62年8月1日
 森敦の『月山』と『鳥海山』が出版されたのは、昭和四十九年である。どちらも単行本になる以前、雑誌発表時に文芸時評で感想を述べもし、単行本になってから書評を書きもした。しかしこの時はまだ、現実の「月山」も「鳥海山」も目にしてはいなかった。
 それから十三年経った。この歳月の経過の中で、月山も鳥海山も見た。月山の山頂までは登らなかったが、羽黒山の二千五百級の石階はたしかに踏みしめたし、鳥海山は曇天続きで長い山裾しか目に入らなかったにしても、山を拝む吹浦と蕨岡の宮にはきちんと足を運んだ。山麓の街、鶴岡と酒田にも泊った。少くとも十三年前よりは、森敦の小説がそこから名を取った土地のたたずまいについて、より具体的な知識ないし認識を得ている。
 そういうことが、小説を読む上で決定的な意味を持つとは、もちろん今でも考えない。作品『月山』に描かれた月山はあくまで作者森敦が見た月山であって、読者は彼の眼を通じてしかこの名を与えられた山を知ることができない。また読者としてそれを知りさえすれば十分なはずである。
 そう思いながら、十三年後の作『われ逝くもののごとく』の風土について、なお多少拘泥したいのは、本誌七月号の森敦・小島信夫対談「小説の背後論理」に、次のようなやりとりがあるからである。
 小島 大山はどういうところかわからないけれども、酒田、吹浦へは何遍も行きました。吹浦の町もちょっと出てきますけれども、よく思い出しました。
 森 あれを読むためには、その二つを知っておいていただくだけでも幸福なんです。加茂なんかも知っていただければね。
「大山」「加茂」いずれもこの新しい物語の主要な舞台となる、鶴岡西方の日本海に面した地域の地名である。ぼく自身ここは知らない。しかし加茂の佗しい漁港でひっそりと暮していた一家の、主は出征してそのまま還らず、敗戦後その両親である隠居夫婦も死んで、遺された妻子はやがて離れ離れになり、孤児にひとしい娘が土地の娼家に引き取られ、その後流浪して奇妙な経験を重ねる、といった物語の大筋の、ゆるゆると推移して行く空間については、ある程度眼の裏に思い描くことができる。その娘サキが娼家の主夫婦に連れられて行く吹浦の月光川の河口、海辺の砂丘と松林、酒田の日和山公園から眼下に見おろす最上川の河口、娼婦の一人が酒場を開く鶴岡の日枝神社に近い汚れた川沿い。どの水も記憶の中のざわめきや輝きや淀みと重ね合わせることができ、それだけ物語の世界が間近に引き寄せられるような感じがある。
 そこで先に引用した作者自身の言葉を改めて考えると、「幸福」というのがいかにも意味深く思われる。つまり具体的な土地を知ることが絶対に必要だとか不可欠の前提条件だとかいうわけでは、さらさらないのだ。ただ、読者にそれを知っておいてもらえれば、より親密な気持で作品の世界に入りこんでもらえもするだろう、そうならば作者としても幸せだというのである。単なる謙譲の修辞とそれを読むことができないのは、そもそも作の基調が物語の場の固有性に執着してはいないからである。
 物語の大筋はサキの一家を中心にして展開しているといってよいが、それにしてもおびただしい人間たちがそこにからみつき織りこまれて、網の目状の図柄を構成しているさまは、ほとんど眩惑的な光景である。作者の愛用語を借りればマンダラ。その中で人間たちは実に簡単に、次から次へと死んで行く。自殺あり、交通事故あり、海難ありといった具合で、個々の例だけを見て行けば、自然主義的残酷物語と見られて何の不思議もないようである。しかし個々の場合としてでなく、一括してこれを俯瞰するならば、その時個別的な自立性は失われ、すべては一つの全体としての地の中に、有機的な連関を保っている絵模様としか見えなくなるだろう。そしてその時また、この全体としての地においては、死と生も本質的な区別を失い、生者は死者のごとく、死者は生者のごとくあることが諒解されるだろう。
 それと同じ意味で、さまざまな名を与えられた四方の土地も、全体として、死者と生者をともに住まわせる、無何有の郷にほかならぬのだといっていいだろう。だが、こういってそこで立ち止ってしまうと、たとえば「逝くもの」である河が、流れとして恒常不変であることだけを見て、水はたえず変化しているのを見落すことになる。たとえ流れが総体であり水が部分であるにせよ、部分のきらめきに目もくれないのでは、その結果の認識は、正しくはあっても何か淋しい、薄手なものにとどまりかねないという気がする。
 そこで作者の「幸福」が、読者の「幸福」と一つになることを考える。具体的な場所を知らないでも、十分この作を読むことはでき、妥当な解釈を下すことはできる。しかし鼠ヶ関から有耶無耶の関に到る道の東に連なる、即身仏や女陰の霊岩やもろもろの語るべからざる神秘を蔵していると伝えられる山と野をすでに知った上で、この作を読む時、細部の味いが格別に濃くなることは、おそらく疑問の余地がない。ほかならぬ両者の照応が、まさしく読者に幸福とより呼びようのない感情を呼び起す。とはすなわち、いうまでもなく、作者がそれだけこまやかに具体的な設定の細部を確かめ、跡づけているということである。
 登場人物の一人が、神も仏もーつ、同じ稲荷でも伏見は神、豊川は仏、と説く所がある。神仏習合のとりわけ強い出羽三山と鳥海山の信仰圏において、その類の一元論はことさら自然にひびくし、個々の模様を全体の地に編み入れてしまう作の中心的志向にもふさわしい。ただその志向を明らかに持っていると諒解しながらも、七百頁近い厖大な物語における「逝くもの」の、時に応じて神とも仏ともなる変化の相に眼を奪われていると、いつしかその変幻のみが作を成り立たせているような心地にひたされる。中心の志向を明確に刻みだす力と、変幻によって眼を奪う力との複合に、この大長篇の究極の魅力がある。
(講談社刊・定価三二〇〇円)
↑ページトップ
書評・文芸時評一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。