083 森敦『われ逝くもののごとく』
書評 富岡幸一郎
出典:文藝 昭和62年8月1日
 一六〇〇枚の長篇小説である。しかし、この文字通り大河のような物語を読みすすめていくと、作品の長さは少しも気にならない。というのもあるところまでくると、この小説から何らかの意味を読みとろうとする気持ちは失せて、ただ作品世界の晴々たる流れに溶けこんでしまうほかはなくなるからである。意味は消える。ただ無限変奏の音が聴えてくるだけである。それはまことに不思議な読書体験である。これははたして小説なのだろうか、いや、小説か否かといった問いかけすらも無効になってしまう。
『月山』と同じように、本書もまた庄内地方が舞台となっている。作品の冒頭、羽越本線の鉄路にそって、荒倉山が見え、高館山が見え、やがて庄内平野がその全貌を現わす。月山、羽黒山、湯殿山のいわゆる出羽三山、さらに金峰山、鳥海山といった山々が眺望され、城下町鶴岡と商港酒田の街がある。そして大山、加茂、湯野浜、由良の街が日本海の波涛に接するように点在する。また注連寺、大日坊、本明寺、南岳寺といった即身仏がある寺が散在している。それは山と海と平野のある一地方である。だが、この作品ではそこは東北の一地方でありながら、土地をこえた時空間を形成している。私事になるが、この作品に描かれている庄内地方のほとんどの場所を私は実際に歩いたことがある。注連寺や大日坊はもとより、「即身仏の中ではもっとも早く入定したといわれる、本明海上人の即身仏がある」東岩本の本明寺なども訪れた。由良や大山の風景も目にうかぶ。だが、それらの風景は、私のなかではバラバラの名所旧跡でしかなかった。ところが、この小説を読むうちに、ひとつひとつの場所がつながり、円環をなし、広がりと深さを持ちはじめる。山川草木すべてがこの作品世界をとりまいているのがはっきりと見えてくる。これは私にとっては一種の衝撃であった。これはおそらく庄内地方を全く知らない人にとっても同じであろう。この小説の舞台は庄内地方をおいて他にはないが、しかし同時にそこはある普遍的な、といってもいい場所であるからだ。そして、それは場所であるとともに時間である。
 物語は「屋根も木端葺きに石を置いて、僅かに風雨を凌いでいる」土地の貧しい一家の話からはじまる。その家の幼い娘であるサキをめぐって展開されているが、召集されて戦死するサキの父親も、岩場で転落死する祖父も、笑い死にする祖母も、あねま屋(遊女屋)の縊死する女も、その周囲の人々も戦中戦後の時代のなかで相次いで死んでいく。つまり、ことごとく逝ぎていく者の話であるといってよいが、一方で犬を連れた西目と呼ばれるふしぎな男の気配が作品を覆っている。西目とはそもそもは荒倉山の麓にある村落の名称であるが、庄内では「西目から来た人」を西目と呼び、その男もまた西目とアダ名される。彼は、加茂から由良に行く海岸べりの洞窟に赤褐のセッターと一緒に住み、村人からは半ば狂人のように思われているが、サキはこの西目から密教の真言をひそかに教えられたりもする。そして、いつしか西目は人々に「われ逝くもののごとく」と呼ばれはじめる。この「われ逝くもののごとく」というコトバは、登場人物の口にひとたびのぼると、人々のあいだでしだいに反響し合うようになり、やがては老若男女、みなが語り合い、作品世界に交響する。西目という正体不明の影のような人物は、樽の中のデイオゲネスであり、聖なる白痴であるといってもいいだろう。私は、ドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン公爵を想い起こしもしたし、ムイシュキンが人間の形をした「キリストにおける患者」ならば、西目は、光明真言を唱える日本の聖者のようでもある。この西目は人々のあいだで「われ逝くもののごとく」というコトバが伝播すると、その犬といっしょに岩窟を立ち去り姿を消してしまうが、「われ逝くもののごとく」はなおも善男善女と共にある。
 
「おらこの『われ逝くもののごとく』を見たみてえな気がしたさけ、『われ逝くもののごとく』もどっさいるか分かる思うて、柳小路さ来たんだでば」
「だば、よかったの。『われ逝くもののごとく』はどこさもおる。なして、おらが行くとこはええことがあるんでろ」
 
「われ逝くもののごとく」は光であり、影であり、煌きである。空海の同行二人を思わずにはいられない。空海といえば、この作品世界は『声字実相義』のなかの「五大にみな響きあり」という言葉に象徴される、太始と太終をつないで響きわたる声(真言)の交響のなかにあるし、『秘蔵宝鑰』に記された「生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し」という生死観につらぬかれているように思える。それはいわゆる無常ではなく、生が死であり、死が生であるという無限である。生でなければ死でない、死でなければ生でないからこそ、人々は「われ逝くもののごとく」と唱えはじめる。この作品では、「われ逝くもののごとく」は人ばかりではなく、犬にもなり、その赤褐のセッターは逝ぎた肉親たちを見つづけてきたサキの隣にいる。この「われ逝くもののごとく」は、作者がいうように「なんの意味を持つものではな」く、「果てもなく拡がって消えて行くだけである」(「梵字川の煌めき」)。しかし、作者はそのものの残響を見事にこの作品のなかで伝えている。山のなかで即身仏(ミイラ)になった者、暗い海に出て無数の光る星にとりまかれながら身を投げずにはいられない者、自殺者も事故死した者も狂死した者も、いちように「あたかも生まれゆくものの声」の残響のなかで逝ぎゆく。この小説を読むことは、その響きのなかに身をゆだねることである。
 そして、最後にこんなつぶやきが聞かれる。《あれはだれが言ったのか。ほんとの姿はみな恐ろしいもんだ。だども、「ごとく」ではすませてはならねえ。いつかだれもほんとの姿を見ねばなんねえさけの》。ここでまたこの作品世界をふりかえるとき愕然とする。おそらく、西目もふくめて登場人物は実在した人々であろう。だが、その人々は個体をこえて「われ逝くもののごとく」となってこの作品に生きつづける。言葉は「ごとく」を描くほかはない。そこから先はもはや言語の世界ではなくなるからだ。しかし、作者はこの「ごとく」を執拗に描きあげていくことで、その語りえぬ「ほんとうの姿」をこそ実は浮かびあがらせてみせたのではないか。この小説の読後感は、それゆえに言葉にならぬ感動と眩惑に充ちている。(講談社刊)
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